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司馬炎(武帝)

魏の曹操に使えた司馬懿の孫。265年、魏の皇帝から禅譲を受けて晋(西晋)を建国、武帝となった。280年、呉を滅ぼし三国時代の分裂を終わらせて中国を統一した。

司馬炎(武帝)
伝閻立本画 司馬炎(武帝)
 中国の三国時代の実権を皇帝から握っていた司馬懿の孫の司馬炎は、265年に魏の皇帝から帝位を奪い、(西晋)を建国した。それが晋の武帝(在位265~290年)である。
 曹操曹丕親子に仕える武将だった司馬懿(しばい、司馬仲達)は、249年クーデタによって実権を握った。その後、その子の司馬昭、孫の司馬炎と司馬氏の権力が続き、魏の皇帝は名ばかりとなっていた。265年、司馬炎は魏の皇帝の禅譲を受け、皇帝となった。

晋の中国統一と施策

 武帝は魏の屯田制で蓄えられた兵力を用いて、帝位につく前の263年にはを滅ぼし、さらに280年にはを滅ぼして晋の中国統一を実現した。
占田・課田・戸調式 武帝は後漢末の184年、黄巾の乱から始まった中国の分裂を約100年ぶりに終わらせ、統一を再現したことにより「まさに干戈(武器)をおさめるべき」時が来たとして州郡の兵をことごとく帰農させ、土地制度と税制を定めて社会の安定をはかろうとし、占田法課田法戸調式などを定めた。これは、後の隋唐の律令制度による統一的な土地制度と税制の前提となる改革であった。

貴族の形成

 晋の武帝の朝廷では、魏の文帝以来の人材登用法である九品中正制を継承したが、はやくも門閥貴族の固定化が進み、地方の中正官(郡と国で夷人物を評定し郷官の九等にふりわける役人)の存在は次第に形骸化していった。
 また、天下が統一されたこともあって安逸な泰平ムードが広がり、貴族のなかに贅沢を競うものもあらわれた。さらに魏が皇帝の曹氏一族を優遇しなかった反動で、晋は皇帝司馬氏の一族を各地の王に封じたため、帝位の継承をめぐって一族対立が起こる余地が大きかった。

武帝の死後の悲劇

 司馬炎は武帝として皇帝となり、晋王朝を作ったが、彼の死後の司馬氏一族は果てしない内紛に陥っていった。武帝にはたくさんの子がいたが、後をついで第2代皇帝となったのは長子の恵帝であった。ところが恵帝は精神障害があり、暗愚であったので、皇后の賈后とその一族が実権を握ることとなった。賈后は策謀をめぐらして武帝時代の外戚であった楊氏一族を追い落とし、さらに恵帝の弟の皇太子を陰謀で殺害して我が子を皇太子にするなど、その権勢欲が王族の内紛の種をまきこととなった。その司馬氏の一族の争いは八王の乱へと発展し、晋は急速に衰退、中国は再び分裂の時代に向かっていく。

出題

 立命館大 2010年 左図は、初唐の時代に活躍し人物画を得意とした画家閻立本が描いたと伝えられる『歴代帝王図巻』のうち、司馬炎(武帝)およびその従者を描いた部分である。司馬炎は、はじめ( A )の将軍であったが、( A )の皇帝からの禅譲を受けて( B )を建国し、やがて( C )を滅ぼして中国を統一した。空欄を埋めよ。(改)

解答


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