九品中正
三国時代の魏に始まり、魏晋南北朝に晋、南朝で行われた官吏登用制度。豪族の貴族化がもたらされ、隋では科挙が行われるようになる。
曹丕(文帝)が魏を建国した220年に制定した、漢代の郷挙里選に代わる官吏登用制度。九品官人法ともいう。九品とは、一品から以下、九品までの九つにわけた品等(ランキング)のこと。中正とは、各郡の出身者一名が政府によって任命され、その地の人に品等をつけ(それを郷品という)る役職のこと。中正がつけた郷品は中央政府に上申され、その品等に応じた官職が与えられる。例えば郷品において二品を与えられた人は、四等級下の六品の官に採用され、二品まで昇進できる。中正はその郡の郷論にもとづき、有徳で有能なを選ぶという人材登用が目的であったが、次第に有力な豪族の子弟が選ばれるようになった。
貴族社会の形成
249年、魏の実権を奪った司馬懿(しばい。三国志演義の司馬仲達。晋を立てた司馬炎の祖父)が、郡の中正の上に州大中正を置き、中央の名門出身者が州大中正を兼ね、より広い範囲で郷品をつけるようになってから、個人の力量や才能よりも、血統がよく財力のある豪族の子弟が選ばれるようになり、西晋の頃は「上品に寒門無く、下品に勢族なし」と言われる状態となった。この制度は、魏晋南北朝を通じて行われ、地方の豪族が中央に進出して、上級官僚の地位を独占し、門閥貴族化し、貴族社会を形成していく一因となった。その弊害をなくして人材を実力本位で選出しようとしたのが隋に始まる科挙制度である。上品に寒門無く、下品に勢族なし
九品中正で上の品等にされた人々には寒門=貧しい家の出身者は無く、下の品等とされた人々には勢族=有力者がいない、という意味。つまり、上品は有力者=豪族に占められている、ということである。西晋の時代に言われたことで、魏から始まる九品中正が本来の人材登用の目的からはずれ、豪族が中央の官僚になることが多くなったことを示している。