朝鮮の仏教
仏教の朝鮮への伝来は4~6世紀に行われ、統一新羅時代に鎮護国家仏教として栄え、慶州などに多くの寺院が造られた。
三国への仏教の伝来
朝鮮への仏教伝来は、高句麗では372年(小獣林王)6月に中国の前秦の皇帝苻堅が僧順道と仏像・経典を伝えたのが始まりとされている。374年には南朝の東晋の僧阿道が来て普門寺など二寺を創建した。百済では384年(枕流王元年)に、東晋から僧摩羅難陀が来ると、王は宮中に迎えて教えを聞き、深く仏教を信じ、翌年都の漢山に仏寺を建てたことに始まる。
新羅では5世紀に民間に伝えられたが、公認は高句麗・百済よりかなり遅れ、法興王の時、527年に反対を押し切ってようやく仏教を公認したとされる。これは新羅では土俗的なシャーマニズムの力が強かったためと思われる。
三国時代には儒教も伝えられたが、三国とも国家鎮護のために仏教を保護するという政策を採った。また、日本への仏教伝来は、朝鮮半島南部をめぐり新羅と対立していた百済が、倭(日本)との政治的結びつきを強め、その支援を受ける代償として新しい文化を提供するという背景で行われた。それは、6世紀の聖王(日本書紀では聖明王)の時、538年(あるいは552年)のことであった。
新羅の仏教
三国時代の新羅は、7世紀に入って唐と協力して百済、高句麗を滅ぼし、さらに唐と決別して、676年に朝鮮半島での統一支配を樹立した。この三国時代の新羅から統一新羅にかけて、新羅は仏教を鎮護国家の宗教として重んじ、その都の慶州には多くの寺院を建立し、仏教文化が花咲いた。その主要な遺跡として次のものがあげられる。皇竜寺 553年(真興王14年)に造営を開始し、645年(日本で大化の改新のあった年)に完成した大寺院。現在では礎石しか残らないが、中心に建てられた巨大な心礎を中心に八個八列の礎石が64個並び、一辺約22m、七間四方の九重の塔だったと想定される。
芬皇寺 皇竜寺の遺跡の北隣に、634年(善徳女王3年)に創建した。現在、三重の石塔が残るが、本来これは七、ないし九重の塔だった。唐の四面には仁王が、四隅には唐獅子が置かれている。
仏国寺 仏国寺は慶州の南方約十キロのところに在り、吐含山の麓にある大寺。535年(法興王22年)王母の迎帝夫人の創建と言われる。完成は774年と言われるが、豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際に焼き払われて木造部分は無くなって、石造部分だけが残っている。それでも東西の石塔は東の多宝塔と、西の釈迦塔といい新羅を代表する石造建築物とされている。極楽殿内には金銅の毘盧遮那仏、阿弥陀仏が二体ずつあって、朝鮮の代表的金銅仏である。
石窟庵 石窟庵は751年(景徳王10年)に金大城の喜捨(寄付)によって造られた、インドや中国の石窟寺院を模倣したもの。内部には3.26mの石造の釈迦如来坐像が安置され、前室にも八部神将や四天王など、後室に梵天、帝釈天、文殊・普賢菩薩など多数の石造が並ぶ。