前秦
五胡十六国の一つ。351年に氐の苻健が長安に建国。苻堅のとき、華北統一に成功したが、383年の淝水の戦いで東晋に敗れ、中国統一には失敗。
チベット系の北方民族で、五胡の一つとされていた氐は初め前趙(劉曜)・後趙(石虎)に従っていたが、後に自律し、苻健が351年に長安に入り建国した。苻健は国号を「大秦」としたが、一般には始皇帝の秦や、後の後秦、西秦と区別して、前秦といっている。第3代の苻堅の時、胡族政権ではあるが、長安の漢人文化の伝統を取り入れ、また農業を奨励するなど国力を充実させることに成功した。またその頃長安で活躍していた西域出身の僧侶仏図澄の弟子の道安を保護して仏教に帰依した。
苻堅は河北・山東にあった前燕と北方にあった代国(いずれも鮮卑系)を制圧し、さらに甘粛にあった前涼(漢人系)を滅ぼして、華北をほぼ統一し、五胡十六国の続く中国で、一時は最大の勢力となって、江南の東晋の討伐をも狙うようになった。
淝水の戦いで苻堅が敗れ、前秦が瓦解したことにより、華北の他の北方民族に独立の気運が生まれ、鮮卑族や羌族が次々と独立運動を開始したということができる。そのため華北は再び分裂時代となり、その中から、北方にあった鮮卑拓跋部の代国が復興し、拓跋珪が386年に北魏を建国、第3代の太武帝の時、439年に華北を統一する。
苻堅は河北・山東にあった前燕と北方にあった代国(いずれも鮮卑系)を制圧し、さらに甘粛にあった前涼(漢人系)を滅ぼして、華北をほぼ統一し、五胡十六国の続く中国で、一時は最大の勢力となって、江南の東晋の討伐をも狙うようになった。
中国統一に失敗
前秦の苻堅は中国統一を目指し、383年に南下を開始し江南の東晋を討とうとした。大軍が南下したが、淝水の戦いで東晋に敗れ、苻堅の中国統一の望みは達することができなかった。苻堅は長安に戻ったが、急速に求心力を失い、385年に部下に殺害され、その子たちが再興を図ったがかなわず、最終的には394年に鮮卑の慕容氏に滅ぼされた。苻堅を殺害した姚萇(ようちょう)は五胡の一つの羌の出身で、386年、長安で後秦を建国した。淝水の戦いで苻堅が敗れ、前秦が瓦解したことにより、華北の他の北方民族に独立の気運が生まれ、鮮卑族や羌族が次々と独立運動を開始したということができる。そのため華北は再び分裂時代となり、その中から、北方にあった鮮卑拓跋部の代国が復興し、拓跋珪が386年に北魏を建国、第3代の太武帝の時、439年に華北を統一する。