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苻堅

五胡十六国時代、氐の前秦の皇帝。華北を一時統一に成功。383年、中国統一を目指し南下するも、淝水の戦いで東晋に敗れた。

 五胡十六国の一つ、チベット系の前秦の第3代皇帝(在位357~385年)。351年に長安に前秦を建国した苻健の甥にあたり、暴君だった第二代の苻生を殺害して第3代の皇帝となった。王猛など有能な部下に支えられて国力を富まし、同じく北方民族の鮮卑を抑え、前燕と前涼を滅ぼして華北を統一した。
 苻堅はチベット系の人であったが、かつて後趙の都の鄴に人質にされて成長したので中国的教養も身につけ、長安の漢人王猛を登用して宰相とするなど、漢文化とのバランスを取ることができた。前秦の第二代苻生は暴君で評判が悪く、甥の苻堅の名声が高まるのを憎んで殺そうとしたが、357年、それを察知した苻堅は先んじて宮中で苻生を殺害、自ら位についた。

Episode 揚子江を渡る夢

 苻堅はその後、周辺の反対を押し切って、中国統一を目指し、東晋を討つという壮大な夢を描いた。丞相の王猛は「東晋には手出しをしてはならない」と臨終の枕元で苻堅に言い残していたが、華北統一を成し遂げた苻堅は、東晋をも倒すことができると自信を強め、天下統一を実現した君主となることを夢見るようになったのだろう。側近のなかには揚子江(長江の下流)は広くて容易には渡れない、と言う者もいた。なかには内心、苻堅がこの事業に失敗することを願って、盛んに勧める武将もいた。苻堅はとうとう決心を固めた。苻堅は「わが軍のひとりひとりが鞭を投げ込んだだけでも、揚子江の流れぐらいはせきとめられるぞ」と傲語(ごうご)したが、そのじつ、苻堅は揚子江を見たことがないのだ。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.174-175>

淝水の戦いに敗れる

 383年、先鋒軍団25万の他、みずから歩兵60万、騎兵27万と称する大軍を率いて南下を開始した。この数字は誇張もあるだろうが、未曾有の大軍だったことには違いない。
 当時の南北の境界線、淮河をおし渡り、その支流の淝水(ひすい)をはさんで東晋軍と対陣した。北軍は夏の終わりから行動を開始していたので、ここにくるまでに暑気にあたって病気になるものも多く、意気ははなはだ沮喪していた。しかも諸民族の寄せ集め軍隊だったので、はじめから闘志を持っていない。対する東晋の主力である広陵に駐屯している北府の軍隊は胡人の南下を阻止することが任務と心得ているので戦闘意欲が高く、指揮官には謝石、謝玄ら一流の貴族が任命され、実際の戦闘指揮に当たる将軍劉牢之(りゅうろうし)のもと、北軍を待ち構えていた。
 こうして383年陰暦10月、淝水の戦いが開始されると、東晋軍が積極策を採り、淝水をわたって攻撃をしかけ、先鋒が敗れると烏合の衆が離散するように総崩れとなった。苻堅自身もその乗車を捨て、騎馬で約千人の親衛隊のみを引き連れて北に向かって逃れなければならなかった。<宮崎市定『前掲書』p.175>

前秦の滅亡

 苻堅自身も流れ矢を受け、傷つきながらとも廻りわずか千騎を引き連れ、鮮卑の慕容垂の兵団に収容された。慕容垂はかつて鮮卑族間で争ったとき、苻堅の前秦に亡命して救われたことがあった。慕容垂の幕僚のなかにはこのチャンスに苻堅を討ち取ろうという者もいたが、「一片の不信も持たずに身を寄せてきたのだ。それをどうして殺せよう。」といって彼を保護し、苻堅はまもなく都長安に帰ることができた。
 しかし、苻堅が淝水の戦いで敗れたことは、華北で彼に抑えられていた北方民族に自立の好機の到来となったことはやむをえず、各地の鮮卑族・族が独立を開始した。385年には漢中で独立運動を介した族によって、苻堅は捕らえられ殺されてしまった。しかし前秦は一族が苻堅の位牌を奉じて394年まで諸勢力に抵抗し、存続した。<川勝義雄『魏晋南北朝』1974 講談社学芸文庫版 p.336>

苻堅と仏教

 なお、苻堅は372年に僧を高句麗に派遣し、朝鮮の仏教の布教の端緒となったことが知られている。また部将の呂光を派遣して西域諸国を従えようとしたとき、亀茲国の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の高名を聞き、招聘を命じた。しかし、384年に呂光が鳩摩羅什を伴って敦煌まで帰って来たとき、すでに苻堅は淝水の戦いで大敗し、前秦は瓦解しつつあったので、呂光はそのままそこに留まり後涼国を立てた。
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書籍案内

宮崎市定
『大唐帝国―中国の中世』
1968初刊 1988中公文庫

魏晋南北朝の記述が3分の2を占める。史話満載。

川勝義雄
『魏晋南北朝』
2003 講談社学術文庫版