契丹文字
10世紀に、契丹が漢字の影響のもとで作成した文字。完全な解読は行われていない。
契丹文字 道宗皇帝墓碑の一部
10世紀にモンゴル高原から中国東北部にかけて建国した契丹で作られた文字。920年、太祖耶律阿保機が制定した契丹大字(表意文字)と後に作られた契丹小字(表音文字)からなり、両者が併用された。契丹文字は「漢字の字形または構成原理を模倣して創作した文字」であり、10世紀のアジアで漢民族の唐王朝が滅亡し、周辺諸民族が独自の文化を形成していった中で、西夏の西夏文字や女真の女真文字、さらに日本の仮名文字の発生などと共通する文化現象ととらえることが出来る。しかし契丹文字は現存する資料が少なく、解読はまだ完全には行われていない。
契丹文字の創作
契丹建国後の十数年を経た920年正月、太祖耶律阿保機は、契丹文字を創案し始め、9月に完成し、それを公布した。それが契丹大字である。契丹大字は漢字を参考に(あるいは漢字の字形を借りて)作られた表意文字であったために、契丹語の多音節単語や種々の接辞を表記するのに不便であったが、数年たって、太祖の弟迭刺(てつらつ)がウイグルの使者から表記法を学んで、表音文字である契丹小字を創作した。その年代は明らかではないが、924年ごろと考えられる。表意文字の大字を補って、表音文字を作ることは女真文字にも影響を与えた。契丹文字の解読の状況
契丹文字は1125年、遼が滅び金の時代になってからも使われたが、金の章宗の1191年に契丹文字の使用は禁止された。明代になるとこの文字を読むことのできる人はすでに生存しなかった。1922年にベルギー人のカトリック神父ケルヴィンが内蒙古自治区にある遼の王陵、いわゆる慶陵の中陵(興宗陵)から漢文と契丹文字の墓碑銘を記した石碑を二基発見し、その後、1930年に慶陵の東陵から聖宗皇帝碑、仁徳皇后碑など、西陵から道宗皇帝碑、宣懿皇后碑などがまとまって出土し、その良好な拓本がもたらされて研究が進んだ。文字の性格はあらまし解明されたが、文字組織の全面的な解読には至っていない。契丹語が死語であって音韻構造に不明な点が多いこと、漢文と併記した資料が極端に不足していることなどが解読がすすんでいない理由であるが、今後の資料発見があって女真文字との比較研究が進むことに期待がかけられている。<西田龍雄『アジア古代文字の解読』1982 大修館刊 2002 中公文庫再刊>