二重統治体制
征服王朝である遼、および金の中国支配体制。支配下の遊牧・狩猟民族と漢民族に対して異なる統治体制をとること。
遼の二重統治体制
北方系遊牧民が中国本土の華北を支配して成立した遼は、本拠地であるモンゴル高原東部の草原地帯の北方民族(北人)と、征服地である長城以南の燕雲十六州の農耕地帯の漢民族(漢人)に対する支配体系を二本立てとした。官制では、北人に対しては北面官、漢人に対しては南面官が統治にあたり、地方統治は北人地域には遊牧民古来の金の二重統治体制
女真が中国東北部から華北を支配して成立させた金も華北を支配するにあたり、二重統治体制をとった。1115年、遼から独立して金を建国した完顔阿骨打(太祖)は、女真に対しては猛安・謀克制(三百戸を謀克、十謀克を一猛安とする軍事・行政組織)で統治したが、支配下の漢民族に対しては従来の州県制を維持した。また金においても独自の文字である女真文字が作られた。ただし、金は華北支配を続けるうちに、次第に漢化し、漢民族の制度を採り入れるようになり、太祖の弟の太宗は二重支配体制を改め、中国の三省制に一元化して君主権の強化を図った。
征服王朝 北方民族が中国を征服して建てた王朝には五胡十六国・北魏以降の北朝・遼・金・元・清があるが、その支配のあり方で、漢民族の制度や文化に同化した場合と、民族独自の支配体制と文化を維持した場合の違いがある。五胡十六国や北魏はほとんど漢化して独自性をもたなかったが、遼・金は二重統治体制をとって独自の支配体制を一部で維持し、また統治にあたって漢字ではなく独自の文字を用いた。元と清も同様な傾向がある。そこで、遼・金・元・清を他の北方民族系の王朝と区別して、征服王朝という場合がある。