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殿試

宋代の科挙の最終段階で皇帝自らが行った口頭試問。

 宋(北宋)科挙の制度における最終段階の試験で皇帝自らが行った。宋の太祖趙匡胤の時、973年の省試で不正事件が発覚し、皇帝自らが出題して省試をやり直したことがきっかけとなり、975年から制度化された。科挙の最終段階の試験として、皇帝が問題を作問し、皇帝の面前で試験を行うのが殿試である。はじめは選抜試験としての意味があったが、1057年からは不合格者は出さず、省試合格者に序列をつけることが目的となった。殿試の第1位を状元といった。殿試によって官僚は皇帝と直結するという意識を持たせることがねらいであり、宋の皇帝権力強化策の一環であった。

Episode 落第のない殿試

 殿試は皇帝みずからが試験官となる科挙の最終試験であって、それだけに落第させることは出来なくなってしまった。
(引用)殿試がはじまった当初は、省試の合格者が応ずるのではあるが、成績次第でさらに最終的な及第をきめた。しかし北宋のなかばからは、殿試は省試の結果を確認し、あらためて順位をさだめるにとどめ、原則として落第させることはなくなる。つまり落第の怨恨が天子に向けられることを避け、恩恵をほどこすという面だけを採ったのである。これはけっして理論的に考え出されたのではなく、実は具体的な問題が起こったために採られた処置であった。当時宋は東北から契丹族の遼に圧迫されていたばかりでなく、西北、今の陝西省北部を中心としてタングート族の西夏が興り、辺境に紛争が絶えなかった。そして科挙に落第した知識人の不満分子がしきりに西夏に亡命し、西夏もそれらの人びとを積極的に迎え入れて優遇するという、一種の頭脳流出現象が起きていた。だからといって希望者を全員及第させるわけにもいかないが、少なくとも天子が落第させるのはまずいということになったらしく、仁宗の嘉祐2年(1057年)から殿試で落第させることはなくなった。…………殿試設置の影響としてもうひとつみおとせないことがある。唐代では進士に及第しても吏部の試験を経なければ任官できず、これがもう一つの関門となっていたが、殿試が設けられてからは、進士は原則としてただちに任官することになった。つまり天子が資格を認定したのであるから、何人も異議をさしはさむことはできないのである。<村上哲見『科挙の話』講談社学術文庫 1980 p.82-83>
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書籍案内

村上哲見
『科挙の話-試験制度と文人官僚』
1980 講談社学術文庫