宋/北宋
中国の王朝。960年に趙匡胤が建国し、五代の争乱を終わらせ979年に中国統一。文治主義を取り、官僚制を整備して皇帝専制政治体制を作り上げたが、北方の遼・金との緊張関係は続き、軍事費が増大した結果、財政難に陥り、11世紀後半に王安石が改革にあたった。1127年、金軍に首都開封を占領されて滅亡し、その一族が江南に移り南宋を建てる。それまでの北宋とこの南宋を通じ、商工業の発達、朱子学の成立などの中国文化の展開がみられた。
遼・北宋・西夏
宋は五代十国の争乱を終わらせた、漢民族による中国統一王朝であるが、華北の一部の燕雲十六州はなお遼(契丹)に支配され、その圧迫を常に受けていた。また西方の西夏、後には遼に代わって台頭した女真の建てた金の圧迫を常に受け、その防衛のための軍事費は常に宋王朝の財政を圧迫した。
宋の時代的特質
10~11世紀の五代から宋の成立までの時期は中国史およびその周囲の東アジアの大きな転換点であった。その内容は次のような諸点にまとめることが出来る。(1)貴族の時代から庶民の時代へ:魏晋南北朝から唐の時代に形成された貴族(門閥貴族)は唐末にその基盤であった荘園制と共に没落し、庶民社会へと移行した。庶民は律令制下の均田農民層であったが、均田制の崩壊に伴い、上層の新興地主層(形勢戸)と中・下層の都市民、農民(小作人=佃戸)とに分解し、上層庶民は地主であると共に士大夫や読書人と言われる知識人、科挙に合格した官僚として支配階級を形成した。しかしその身分と地位はかつての貴族と異なり、原則として世襲されることはなかった。
(2)皇帝独裁政治の時代:唐末から五代の節度使による武断政治は宋の成立と共に解体され、皇帝独裁体制のもとで文治主義に転換し、国家運営は皇帝のもとで、もっぱら財政を主として文人官僚によって行われた。その機構は、尚書省・中書省・門下省の三省を改めて中書省と門下省を合体させ中書門下省(政事堂)が設けられ、皇帝権力を支える官僚を得るために科挙を整備して殿試を設けるなどの改革を行った。皇帝独裁政治を支える軍事行政機関としては枢密院が重要な機関となり、皇帝直属の近衛兵として禁軍が設けられた。
(3)貨幣経済の時代:資源の開発と技術の革新が進み、各地の特産品と生まれて地域分業が行われ、流通経済が発展した。銅銭である宋銭が大量に鋳造されて国内に流通したばかりか、海外にまで流出した。高額取引には銀も用いられるようになり、さらに貨幣の不足を補う紙幣として交子が流通するようになった。首都の開封は商業流通の中心として繁栄し、地方には商業都市である多くの草市・鎮が生まれ、商工業者はそれぞれ行・作という同業者組合を結成した。
(4)海外交易の時代:このような経済発展を背景に中国商人による盛んな海外との交易が行われ、彼らのジャンク船は遠くインド洋まで活動をしていた。この海外との交易は江南の開発が進んだ南宋、中国の統一が回復された元の時代にも引き継がれ、ムスリム商人が広州、泉州、明州、温州、杭州などの港市に往来した。これらの海港には貿易管理、徴税を行う役所として市舶司が置かれた。ムスリム商人は唐代以降、大食(タージー)といわれ、主要な港市に居住地として蕃坊を設けてた。また、三仏斉(現在のスマトラ島を中心とした国家。シュリヴィジャヤ王国の後身ともいわれるが異説もある)などは盛んに宋に朝貢した。一方、内陸では、周辺の遊牧民との間で、平時においては盛んに絹馬貿易(茶馬貿易)が行われていた。
(5)新たな民族の時代:華北に進出した契丹や女真の国家はかつての五胡と異なり、漢文化に同化せずに独自の民族的性格をそのまま中国に持ち込んできた。そのような周辺民族の活動を見て、宋には漢民族として自覚が生まれたと言える。宋は遼や金を対等な交渉相手とせざるを得ず、その交渉は宋の政治に直結した。1004年には遼との澶淵の盟を結び、和平を実現したが、遼への贈与の負担は財政を圧迫し、西方に起こった西夏との1044年の慶暦の和約も宋の財政を圧迫し、王安石の改革などの要因となった。
(6)新しい文化の展開:宋代の社会変動はそれまでの貴族文化に代わり、新しい庶民文化を生み出した。その担い手は、学問や文学、絵画においては上層庶民階級の士大夫であるが、庶民もまた手工芸品(陶磁器)や芸能などで新しい文化を生み出した。特に儒学においては、唐までの訓詁学を手とした形式的な理解にとどまっていた段階から、宋学という世界観や精密な論理をきわめていく学風が起こった。 → 宋代の文化
遼・西夏との講和と王安石の改革
遼や西夏に対する防衛、また和平策による贈与は財政負担を強めたため、神宗のときの1070年、王安石を登用して財政その他の政治改革を行って財政再建をめざしたがたが、改革を支持する新法党と改革に反対する旧法党の対立が生じ政治は混乱し、改革は結局失敗した。宋の停滞
王安石の改革が失敗した後、宋では新法党と旧法党の争い、さらに宦官の暗躍などで政治が不安定となるなか、12世紀のはじめの徽宗の時代には政治を顧みないという時期が続き、宮中の贅沢は地方を疲弊させ、社会不安も強まった。元代に生まれて明代に完成され、庶民に喝采された『水滸伝』の舞台となりそのモデルとなった宋江を頭とする梁山泊の盗賊集団が現れたのもこの時期であり、また実際に江南では方臘の乱という農民反乱が起こっている。金の台頭
宋の朝廷の腐敗がすすみ、農民の不満が高まった時期に、北方で金の力が強大になってきた。宋は金の強大化を遼を攻める好機と考え、金と結んで遼を南北から同時に攻めた。しかしそのころ方臘の乱も宋を悩ませていたので、1125年に遼を滅ぼしたのは実質的に金の軍事力であった。靖康の変
遼に代わって華北に金が進出してくると、宋はもはやそれに抗する力を失っていた。1126年、都開封は金に攻略され、翌1127年には上帝徽宗と皇帝欽宗以下の皇族が金によって連行され( 靖康の変)てしまった。ここまでを北宋という。その難を逃れた皇族の一人高宗が江南に逃れ、宋を再建するが、それは南宋と言って北宋と区別する。宋代の商工業の発達
北宋・南宋を通じて宋代には、文治主義がとられたこと、江南の開発が進んだことなどを背景に、商工業が著しく発展した。またそれを支える貨幣経済も一段と活発となり、大量の宋銭の発行でも通貨は不足し、北宋では世界で最初の紙幣である交子の発行が始まり、南宋では会子が用いられた。このような商工業の発展は、宋代には都の開封の繁栄以外にも、新しい地方の商業都市として、草市や鎮が多くなったところにも見られる。また都市には商人の同業組合である行や、手工業者の同業組合である作がつくられた。手工業の発展では、現在に続く陶磁器の産地の景徳鎮が生まれたのも宋代である。また唐代に一般に普及した茶を飲む習慣が唐代にはさらに広がり、周辺の遊牧民にも広がった。遊牧民の特産である馬と、農耕民の特産である絹や茶を交易する茶馬貿易(絹馬貿易)が平時には盛んに行われた。茶が普及し、輸出品とされるようになったことで、宋王朝は茶の専売制を採用して財政の安定をはかった。
ヨーロッパに先行した貨幣経済の発展
中国の唐末から宋の時代、商工業や貨幣経済が発達した10~12世紀は、ヨーロッパではどうだっただろうか。ヨーロッパは中世封建社会が続き、商工業・貨幣経済はむしろ衰えていた。十字軍運動を経た11~12世紀の商業の復活(商業ルネサンス)によって貨幣経済がようやく復活する。しかし、中世を通じヨーロッパでは国家による統一的な貨幣鋳造も、紙幣の発行もなかったことにくらべれば、アジア文明圏の経済と文化の優位性が認められる。宋代の商工業と貨幣経済は、元代にも受け継がれ、13世紀に中国に渡来したマルコ=ポーロなどヨーロッパ人をして感嘆させることになる。