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トゥグルク朝

インドのデリー=スルタン王朝3番目で、1320年に成立したトルコ系のイスラーム政権。一時期、デカン高原を征服しその支配は南インドにも及んだが、地方政権が分立した。14世紀末、ティムールの侵攻を受けて衰退し、1414年にサイイド朝に替わった。

 インドのイスラーム化を進めたデリー=スルタン朝の第3の王朝。1320年ハルジー朝の将軍ギャースッディーン=トゥグルクは、ハルジー朝が内紛で混乱したすきにそれに代わって実権を握った。トゥグルクもハルジーと同じくトルコ系ムスリムであったが、開墾の奨励や潅漑施設の拡充などに努め、イスラーム政権の安定を図った。

一時的な全インド支配

 トゥグルク朝第二代のスルタン、ムハンマドは王子時代にデカン高原への遠征を行い、インド亜大陸の最南端、パーンディヤ朝の都マドゥライを征服した。その結果、トゥグルク朝の支配は、カシミール、ラージャスタン(北インド)、オリッサとマラバール(いずれもベンガル湾岸)などのほぼインド全域に及んだ。ムハンマドも潅漑などの公共事業を行い、農業の保護を行ったが、反面、都をデリーからデカン高原に新都ダウラターバード(富裕の都の意味)を建設しようとしたり、中央アジアへの遠征を計画して、農民への課税を強化したため、その征服地で反乱が相次ぐようになった。

地方政権の分立

 トゥグルク朝は一時、ほぼ全インドを支配したが、次第に政治が乱れ、各地にイスラーム政権が分立するようになった。その一つ、バフマン朝(バフマニー朝)はデカン高原から南インドに有力となった。また1336年には南インドにヒンドゥー教国のヴィジャヤナガル王国が自立した。

ティムールの侵攻

 1398年ティムールがインド遠征に乗りだしデリーに入城すると、トゥグルク朝スルタンは逃亡し、デリー市民多数が殺戮された。ティムール軍は奪った財宝と多数の捕虜を伴い、わずか15日後にはサマルカンドに引き上げた。ティムールはインドを恒常的に支配する意図はなく、デリーは部将ヒズル=ハーンがティムールの代官として統治した後、1414年にトゥグルク朝を滅ぼしサイイド朝を建国した。

Episode トゥグルク朝スルタンの善政と残虐

 1334~40年にアラブの大旅行家イブン=バットゥータがインドに来て、トゥグルク朝のスルタンに仕え、詳細な記録を『三大陸周遊記』に残している。それには、彼の仕えたスルタンのムハンマド=イブン=トゥグルクの善政と、その反面の想像を絶する残虐な刑罰について述べている。
(引用)インドのスルターンは、謙遜、公平であり、貧民をあわれみ、底なしの太っ腹を示しながら、人の血を流すことが何よりも好きである。王宮の門前に殺された人々の横たわっていないことは、まず珍しい。わたくしは、その門前で人を殺し、その屍をさらすさまをいやというほど見せられた。ある日、参内しようとすると、わたくしの馬が怯えた。前方を見ると地上に白い塊があった。「何か、あれは」というと、同行の者が「人間の胴体です。三段に斬ってあります」と答えた。・・・<前島信次訳『三大陸周遊記』角川文庫 p.200>