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インドの歴史(植民地化まで)

インド=南アジア世界を構成するのは、現在のインドだけではなく、パキスタン・バングラデシュのイスラーム教国を含む。またインド亜大陸の周辺、チベット・ネパール・ブータン・スリランカを含む。インダス文明以来、バラモン教・仏教・ヒンドゥー教などの宗教を軸とする独自の文明と、カースト社会を形成した。マウリヤ朝やグプタ朝、ムガル帝国などインド亜大陸のほとんどを統一支配した王朝はあったが、多くは地域政権が分立する時代が続き、16世紀以降はヨーロッパ勢力の植民地化が進んだ。

インド亜大陸
インド亜大陸
Yahoo Mapに加筆
 世界史で「インドの歴史」といった場合は、現在の国家である「インド(インド共和国)」だけでなく、その周辺のパキスタンバングラデシュ、さらにネパールスリランカ、および時期によってはアフガニスタンビルマミャンマー)なども含む「南アジアの歴史」を指している。
 ヒマラヤ山脈の南に広がるインド亜大陸は、ヨーロッパよりも広い面積を持ち、多くの民族と言語が存在するが、「南アジア文明圏」としてのまとまりを有している。ヒンドゥー教、仏教、カースト制度など独自の文明を形成したが、常に西側のイラン高原・アフガニスタンからのオリエント文明、イスラーム文明の浸透、東側の東南アジアや北側のチベットを経由しての中国文明との交渉なども視野に入れておく必要がある。
 最近ではアラビア海・ベンガル湾を含むインド洋を舞台にした海上交通により西はアラビアやアフリカ、さらに地中海世界、東では東南アジアのインド化、さらに中国文明との交流が重要なテーマとされるようになっている。
 → インド洋交易圏  インドの言語

南アジア世界の諸地域

 地域的な違いとしては、西側のインダス川流域上流はパンジャーブ地方(さらにその上流がカシミール地方)と下流のシンド地方に分けられ、東側のガンジス川は中流をヒンドスタン地方、下流をベンガル地方という。さらに支流ブラマプトラ川流域はアッサム地方という。亜大陸の中央のデカン高原の真ん中でインドを南北に分けて考える必要があり、「北インド」はほぼアーリヤ人の社会、「南インド」はドラヴィダ人の社会と考えてよく、インド史をまとめる場合も、北と南の違いに十分留意しておく必要がある。

(1)インダス文明

前2500年頃~前1500年頃、インド北西部のインダス川流域に都市文明が形成された。

 紀元前2500年頃から前1500年頃、インダス川の上流域であるパンジャーブ地方にはモンスーンを利用した米やアワ、麦の栽培などのドラヴィダ人の農耕社会を基盤としてインダス文明が形成された。紀元前2300年~前1800年頃にはモエンジョ=ダーロハラッパーなどの都市が形成され、焼き煉瓦を積み上げた建物や道路からなる都市遺跡が残されている。ただし、インダス川流域におけるインダス文明の形成は、広い意味でインドの歴史の出発点であるが、この地域は、現在はほとんどがパキスタン領に属している。
 インダス文明の特徴は、整然とした都市計画と沐浴場などの公共施設を持つ都市文明であったことである。また、彩文土器とともに青銅器を使用する、青銅器文化の段階に入っていた。印章にはインダス文字が認められるが、解読には至っていない。

(2)インド社会の形成

前1500年頃、北西部からインド=ヨーロッパ語族のアーリア人が侵入、鉄器文明をもたらすと共に先住民を征服し、さらにガンジス川流域にひろがる過程でカースト制社会を形成した。前6世紀ごろガンジス流域に都市国家が成立、その中から仏教などの新しい宗教が生まれ、それはアレクサンドロス大王のインド遠征を機に生まれた統一国家マウリヤ朝の国家理念とされていく。

アーリヤ人の侵入

 前1500年頃に西北から移動したアーリヤ人パンジャーブ地方を征服しながら先住民と交わり、さらに前1000年ごろ以降にはガンジス川流域に広がった。アーリヤ人は鉄器を使用しながらを飼育する牧畜を行い、自然を崇拝する讃歌リグ=ヴェーダに代表されるヴェーダを作り上げていたので、この前1500年から前500年ごろまでの時期をヴェーダ時代といい、前1000年ごろで前期と後期に分けている。

カースト制の形成

 アーリヤ人がガンジス川の農耕地帯を征服していく過程で、いわゆるカースト制度がうまれと考えられている。アーリヤ人の社会では自然崇拝が行われその司祭者であるバラモンが最上位に置かれ、武人階級であるクシャトリヤとともに支配階級となり、その下にヴァイシャ(本来は農耕牧畜民。次第に商人層を指すようになる)とシュードラ(始めは隷属民の意味であったが次第に農耕牧畜民などの生産者を指すようになる)という四つのヴァルナからなる身分制度が出来上がった。さらに後には四つの種姓の枠の外におかれる不可触民(パーリヤ)といわれる差別される人びともでてきた。
 時代がすぎるにつれ、それぞれのヴァルナを基本に、世襲的な職業による多くのジャーティが生まれ、異なるジャーティの者は通婚ができず、細かな上下関係ができあがった。このような社会を、後にインドに来たポルトガル人がカースト制度と呼び、西洋にも知られるようになった。後にはインドの近代化を妨げる要素とも考えられるようになったが、イギリスはむしろカースト間の対立を分割統治に利用した。

都市国家の形成と新宗教

 前6世紀ごろ、ガンジス川中流域にコーサラ国、下流域にマガダ国などの都市国家が生まれ、その中でカースト制度に批判的な新しい宗教が起こった。ガウタマ=シッダールタは、煩悩に囚われずに解脱への道を説いてその教えは仏教といわれ、ヴァルダマーナは厳しく殺生を禁止してジャイナ教を開いた。

(3)マウリヤ朝・クシャーナ朝

前4世紀末、アレクサンドロス大王のインダス川流域への進出に伴い、インドでも統一国家形成が始まり、最初の統一王朝としてマウリヤ朝が成立。この王朝で仏教は国家理念として保護され、隆盛期を迎える。マウリヤ朝滅亡後、インドは前2世紀~後3世紀ごろまで分裂の時代が続き、イラン系民族の侵攻が始まる。1世紀ごろインド北西に成立したクシャーナ朝では仏教は保護されると共に大乗仏教に変質する。

マウリヤ朝の統一

 西方からインダス川流域まで到達したアレクサンドロス大王のインド侵入に刺激されて、北インドの都市国家に統一の状況が生まれ、前4世紀末前317年チャンドラグプタがマガダ国のナンダ朝を倒してマウリヤ朝を建て、北西インドに進出し、はじめてインドを統一、都をパータリプトラにおいた。
・アショーカ王の時代 前3世紀のマウリヤ朝第3代のアショーカ王は仏教を篤く信仰し、仏法(ダルマ)による政治を志し、仏典結集などの事業を行った。それによって仏教はインド社会に広く受け入れられた。現在でも各地にこの時つくられた石柱碑ストゥーパが残されている。

インドの分裂期

 アショーカ王の没後はマウリヤ朝は急速に衰え、その後インドは前2世紀~紀元後3世紀ごろまで、小国が興亡するという長い分裂の時期となった。北西インドにはギリシア系やスキタイ系、イラン系の国々が興亡した。まずギリシア系のバクトリアが北西インドに進出し、その王メナンドロスのころ一時栄え、インドにヘレニズムを及ぼした。次いでスキタイ系のサカ族が北インドを支配した後、バクトリア地方を支配していた大月氏国から後1世紀頃に興ったクシャーナ朝がインドに進出してきた。ただし、その支配は南インドに及ぶことはなかったのでインド全土を統一したとは言えない。南インドにはサータヴァーハナ朝がインド洋交易で栄えていた。

クシャーナ朝と大乗仏教

 紀元1世紀中頃に、中央アジアの東西交易路を抑えたイラン系のクシャーン人が力を付け、北西インドにその支配を及ぼしてクシャーナ朝が成立した。そのカニシカ王(即位130年ごろ。異説もある)も仏教はあつく保護したが、この時期の仏教はすでに草創期の仏教と大きく変わり、いわゆる大乗仏教が主流となっていた。これは出家者が自己の救済にとどまらず、広く大衆を救済しようという菩薩信仰によるもので、ナーガールジュナ(竜樹)によってその理論が大成された。それに対して従来の部派仏教のなかで権威のあった上座部仏教小乗仏教と言われるようになった。大乗仏教はパミールを越えて西域から中国、さらに朝鮮や日本に広がり、北伝仏教とも言われる。それに対して小乗仏教は、スリランカから東南アジアに広がっていった。
・ガンダーラ様式 クシャーナ朝の都プルシャプラ近郊にはヘレニズムの影響が及んできて、ガンダーラ様式といわれる、多くの仏像彫刻が造られるている。
・ローマとの交易 クシャーナ朝は陸路でローマ帝国とも盛んに交易を行っていたが、同じ時期に南インドではサータヴァーハナ朝インド洋交易圏での海上交易で繁栄していた。サータヴァーハナ朝もローマと盛んに交易を来なったことは、大量のローマ金貨が発見されていることから裏付けられている。

(4)グプタ朝・インド古典文化

4世紀に登場したグプタ朝時代にインド古典文明は完成の域に達すると共に、ヒンドゥー教が民衆に定着する。仏教は7世紀のヴァルダナ朝の保護を最後に次第に衰える。そのころからイスラーム教のインドへの侵入が始まり、インド文明も大きく変質していく。

グプタ朝とインド古典文明の形成

 クシャーナ朝がササン朝に押されて衰退した後、320年にガンジス川中流域に登場したグプタ朝は、ほぼインド全域の統一的な支配を回復するとともに、インド古典文化の黄金期を実現させた。その最も重要な要素が、ヒンドゥー教の定着である。ヒンドゥー教はインド古来のバラモン教から発達した、シヴァ神ヴィシュヌ神を信仰する多神教であり、この時代は仏教やジャイナ教も依然として保護されていたが、カースト制度と結びついたヒンドゥーの神々への信仰が再び盛んになり、全盛期のチャンドラグプタ2世(在位376年~414年)の宮廷でもバラモンが使っていた言葉が公用語とされていた。
・グプタ様式 グプタ朝の時代にはインド独自のグプタ様式の仏像や神像が盛んに造られ、アジャンターエローラなどの石窟寺院に多数残されている。これらの彫刻はヘレニズムの影響を脱し、インドの独自性が強くなっており、中国や日本の仏像彫刻の源流となっている。またグプタ朝時代のインドでは、宮廷でのサンスクリット語による文学、例えばカーリダーサの戯曲『シャクンタラー』が書かれ、またヒンドゥー文学の傑作と言われる二大叙事詩『マハーバーラタ』・『ラーマーヤナ』などが生まれた。

ヴァルダナ朝

 グプタ朝は5世紀後半から西北部を遊牧民のエフタルに侵されて衰退し、かわって606年ヴァルダナ朝が成立した。その王ハルシャ=ヴァルダナの時代には仏教も保護され、グプタ朝時代に設けられたナーランダー僧院は大乗仏教の仏典研究の中心となった。唐からインドに渡った玄奘義浄が来て学んだのもこの学院であった。ヴァルダナ朝はハルシャ王の死後、内部抗争が激しくなり、短命に終わった。このころデカン地方にはドラヴィダ系のチャールキヤ朝があって、ヴァルダナ朝の南進を阻止した。

ラージプート時代

 ヴァルダナ朝が衰えた後に、7世紀から13世紀まで北インドにはラージプートといわれる地域的諸王朝が次々と現れ、抗争するという分裂時代に陥った。この時代をラージプート時代という。ラージプートを称する地方政権はいくつか存在したが、その中で有力であったのがカナウジを都としたプラティーハーラ朝であった。この王朝は、非ラージプートであるベンガル地方のパーラ朝(最後の仏教保護を行った王朝)、デカン高原のラシュトラクータ朝と争った。ラージプート諸侯はイスラーム勢力のインドへの侵攻に対して戦ったが、結局、結束してあたることがなく、内部抗争が続いたため、北インドのイスラーム化が進むこととなる。756年即位したラシュトラクータ朝のクリシュナ1世の頃、エローラ石窟寺院の開削はもっとも盛んだった。 → インドの仏教衰退

南インドの諸王朝

 南インドにはアーリヤ文化とは異なるドラヴィダ人の社会が存続していたが、ヒンドゥー教の改革運動であるバクティ運動が南インドに起こり、ヒンドゥー文化も浸透してきた。また、海の道といわれるインド洋交易圏ではギリシア系商人が活動し、南インドから東南アジアの海岸部には港市国家が生まれ、香辛料絹織物陶磁器などが盛んに交易された。
 インド亜大陸の南端部には、北インドのクシャーナ朝、デカンのサータヴァーハナ朝と同じ時期にタミル人のチョーラ朝が栄えていたが、3世紀ごろ衰え、9世紀ごろに復興した。パッラヴァ朝パーンディヤ朝などがあり、またスリランカには、アーリヤ系の仏教国シンハラ王国が栄えたが、次第にドラヴィダ系のヒンドゥー教徒タミル人との抗争となっていった。

(5)インドのイスラーム化・ムガル帝国

8世紀に始まるイスラーム教勢力のインドへの浸透は、デリー=スルタン朝をへて16世紀初めに成立したムガル帝国が強大となる。17世紀後半、アウラングゼーブ帝の時、ほぼインド全土を統一。しかし同時にポルトガルを始めヨーロッパ勢力のインドへの進出が始まり、18世紀にはフランスを排除したイギリスがインド植民地化の主導権を握った。

インドのイスラーム化

 イスラームのインド侵入は、すでに8世紀にシンド地方から始まっていたが、本格化したのは、10世紀後半からのアフガニスタン方面からのガズナ朝ゴール朝の相次ぐ北インドへの侵入があった時代からである。それに対して北インドのヒンドゥー勢力であるラージプート諸侯は抵抗したが、統一した力ではなかったので次第にイスラーム勢力に押されていった。この時期に、インドの農村は自給自足的な村落共同体としての性格を強め、ジャーティ制度(いわゆるカースト制度)がその社会に浸透していった。

デリー=スルタン王朝

 北インドの中心地デリーには、1206年アイバクが建てた奴隷王朝以来、デリー=スルタン朝と総称されるイスラーム政権が続いた。それは、ハルジー朝トゥグルク朝サイイド朝ロディー朝と続き、この時代にインド=イスラーム文化が形成された。
 デリー=スルタン朝の中ではハルジー朝が南インドに進出したのを受け、次の トゥグルク朝もデカン高原以南に出兵し、一時はその領土をインドのほぼ全域まで拡大した。そのころ、1334年から40年にかけて、モロッコ生まれの大旅行家イブン=バットゥータが訪れ、その『三大陸周遊記』に詳しく当時のインドを伝えている。しかし、トゥグルク朝の重税政策は征服地の反発を受けて各地で反乱が起きるようになり、その部将バフマーニーは、デカン高原北部で自立してバフマン朝(バフマニー王国、1347~1527)を建てている。また、1398年にはティムールの率いる遠征軍がデリーを占領、略奪を受けた。

ヴィジャヤナガル王国

 北インドにデリー=スルタン朝が存在したころ、南インドでいくつかのヒンドゥー教国があったが、その中で最も繁栄したのが1336年に成立したヴィジャヤナガル王国である。14~17世紀、ヴィジャヤナガルを中心として、デカンの農村地帯、西海岸のマラバール地方などを支配し、インド洋交易でもアラビア商人との香辛料取引で利益を上げていた。しかしその支配下には小藩国が多数分立しており、統制はとれていなかった。
・ポルトガル人の来航 ヴィジャヤナガル王国の支配下にあった南インドの小藩国の一つカリカットに、1498年、ポルトガルの派遣したヴァスコ=ダ=ガマ船団が現れたのだった。

ムガル帝国

 14世紀末頃から、中央アジアの西トルキスタン一帯に国を建てたティムールは、しばしばインド侵入を企てた。1526年、ティムールの子孫のバーブルパーニーパットの戦いでデリーのロディー朝を倒し、ムガル帝国を建国した。ムガルはモンゴルから来た言葉であるが、この王朝の支配層はトルコ=モンゴル系と言うことができる。バーブルと第3代アクバルの時代は南インドにはイスラームの勢力は及んでいなかった。
 ムガル帝国第2代のフマーユーンは、ベンガル地方のアフガン勢力によってデリーを追われ、北インドにはスール朝が成立した。しかし、フマユーンはサファヴィー朝の支援を受け、1555年にデリーを奪還した。
・アクバル帝の統治 ムガル帝国のインド支配が確立したのは16世紀後半のアクバルの時であった。アクバルは1565年には新都アグラを建設し、位階に応じて騎馬などの軍備を義務づけるマンサブダール制と、給与として知行地(ジャーギール)を与えるジャーギール制によって官僚・軍事制度を整備、強大な国力を組織した。
・ヒンドゥー融和策 インドに入ってきたイスラーム教は、異教であるヒンドゥー教と仏教の偶像崇拝を否定し、聖戦という考え方で攻撃したため、仏教はインドにおいて急速に衰えた。しかし、民衆にしっかりと根を下ろしていたヒンドゥー教は根強く抵抗したため、ムガル帝国のアクバルはヒンドゥー教徒との融和が図り、1564年ジズヤを廃止し、ヒンドゥー教徒を官僚に登用した。また彼自身、ディーネ=イラーヒーという新たな一神教を創設したが、定着しなかった。
・インド=イスラーム文化 安定したムガル帝国の宮廷では、インド=イスラーム文化が開花し、ミニアチュールを特徴とするムガル絵画が生まれ、シャー=ジャハーンが建造したイスラーム建築の傑作タージ=マハルが生まれた。こうしてインドではヒンドゥー教とイスラーム教が二大宗教として併存し、仏教とジャイナ教は少数派となっていった。
・アウラングゼーブ帝 ムガル帝国の全盛期の17世紀後半のアウラングゼーブは強大な力で南インドを征服し、全インドを支配するようになったが、その一方でイスラームに深く帰依し、1679年ジズヤを復活させてヒンドゥー教徒との融和策を放棄してしまった。それがムガル帝国の衰退の一因ともなったと考えられている。デカン高原のヒンドゥー勢力はマラーター王国を中心にマラーター同盟を結成してムガル帝国に反抗し、またヒンドゥー教とイスラーム信仰を融合させたシク教も一つの政治勢力として成長し、シク王国を形成した。

ヒンドゥー教の改革運動

 ムガル帝国の元でイスラーム教徒ヒンドゥー教の融合が図られたり、アクバル帝の新宗教創出が行われた背景には、ヒンドゥー教の改革運動であるバクティ運動とイスラーム教の民衆化であるスーフィズム(神秘主義)があった。特にバクティ運動は6~7世紀の南インドに始まり、ヒンドゥー教の強い信仰心で神に帰依することをめざす運動で、スーフィズムの影響を受け、12世紀の初めに北インドにも広がった。次第に、全インドの民衆に浸透していった。16世紀初めに北インドに現れたカビールはヒンドゥー教とイスラーム教の融和を説き、その教えはカースト否定と結びつき、ナーナクに影響を与え、ナーナクはシク教を創出した。このようにムガル帝国時代のインド社会の底流では宗教思想の大きな変化が生じ、カースト制の強固な社会に揺らぎが生じ始めていた。

(6)ヨーロッパ勢力の進出

インドへのヨーロッパ諸国の進出は15世紀末のポルトガルに始まり、次いでオランダが続いた。17世紀後半、ムガル帝国の衰退に乗じてイギリス・フランスの進出が活発となり、この両国の植民地抗争が約1世紀続いた。1757年のプラッシーの戦いでイギリスが勝ち、以後イギリス東インド会社を通じた植民地支配が拡大、強化されていく。

ポルトガルのインド進出

16~18世紀 インドへのヨーロッパ諸国の進出
インドでの英仏抗争
 ヨーロッパ勢力のインドへの進出は、すでにムガル帝国の成立以前の16世紀初頭から始まっていた。大航海時代時代の先鞭を付けたポルトガルは、1498年5月にヴァスコ=ダ=ガマがはじめてアフリカ南端を迂回する東廻りでインド西岸のカリカットに到達してインド航路の開拓に成功し、次いでカブラルが武力でゴアに貿易拠点を築き、香辛料などの貿易品の利益を独占していた。
 続いてイギリスは東南アジアの香辛料貿易の主導権をオランダと争い、1623年のアンボイナ事件で敗れてから、インド経営に本格的に乗り出し、フランス東インド会社がそれに続いた。

イギリス・フランスの抗争

 17世紀後半のアウラングゼーブ帝の時代には、イギリスフランスがインドとの交易の利権をめぐって激しく争った。イギリスはチェンナイ(マドラス)・ムンバイ(ボンベイ)・コルカタ(カルカッタ)に、フランスはポンディシェリシャンデルナゴルにそれぞれ東インド会社の拠点を設けて交易の利益をあげようとし、さらに利益の独占を図って激しく抗争するようになる。インドにおける両者の抗争は、18世紀の中頃、激しい英仏植民地戦争を展開し、カーナティック戦争、次いで1757年年のプラッシーの戦いでイギリスの優位が確定して終結に向かう。その後、イギリス東インド会社は、インド植民地統治機関として機能していく。

(7)イギリスのインド植民地支配(19世紀前半まで)

イギリスは1757年のプラッシーの戦いでフランスに勝ち、インド植民地支配の主導権を握った。その頃本国では産業革命が開始され、インドはイギリスの工業製品の市場・原料の供給地という資本主義原理に従う形の植民地にに変質し、同時に東インド会社をつうじての支配から直接支配へと転換した。その転機となったのが、1857年のインド大反乱であった。

イギリス植民地支配の確立過程

イギリス産業革命の二つの外輪 1757年プラッシーの戦いでイギリスはフランスとのインド支配を巡る抗争に勝利し、全面的な植民地化に踏み出した。イギリス本国では1760年代から産業革命が本格化し、インド支配と産業革命は密接に結びつくこととなった。同時のこの時期にイギリスは大西洋における三角貿易(17~18世紀)黒人奴隷貿易による収益を高めていた。イギリス産業革命という蒸気船は、インド植民地支配と黒人奴隷貿易という二つの外輪で推進された、と言うことができる。
インド支配の変質 産業革命で急速に進展したイギリスの綿工業は、インド産の綿花を原料とするようになった。それまでインドの綿織物を輸入していたのが、今度はインドに輸出するという劇的な変化が起こったのだ。そのためインドの綿織物産業は破壊され、本国向けの綿花・茶、さらに中国向けのアヘンなどの第一次産業に特化させられていくこととなった(イギリスの産業革命とインド)。また土地税の徴収を通じてイギリスはインドの富を徹底して収奪するしくみを作り上げた。こうなるとイギリスのインド支配は、かつての自由貿易主義による貿易相手地域としてではなく、その土地と人間を収奪するという高度な植民地支配に転換する。それを示しているのが、イギリス東インド会社の解散という過程であった。
1757年から1857年へ イギリスのインド植民地化が最も早く進んだのは、ガンジス川河口一帯のベンガル地方であった。1757年のプラッシーの戦いでベンガル地方の主導権を握ってから、ちょうど百年後の1857年に起こったインド大反乱を鎮圧することで成し遂げられた。1757年から1857年というピッタリ1世紀の間に、インドの植民地支配が完成した、と言うことができる。カーナティック戦争・プラッシーの戦い以後の百年間、イギリスはベンガルに続き全インドに支配権を及ぼしていったが、ムガル帝国に代わって各地に成立したインド各地の勢力は、それに強く抵抗した。イギリスは次々と抵抗を排除して行き、最後にインド大反乱を鎮圧してその覇権を達成したといえるが、その間に起こった主要な戦争は次のようなことである。

イギリスの産業革命とインド

 1757年、イギリスがインド植民地化の主導権を握った時期のイギリスはまさに産業革命が始まろうとしており、インド支配と産業革命が並行して展開していった時代であった。イギリスは当初はインドから綿製品を輸入していたが、国内で綿工業が盛んになると逆に綿製品を輸出し、原料として綿花を輸入するようになった。このためインドの家内工業が打撃を受け、輸出用の綿花などの生産に依存する社会となった。 → イギリス産業革命とインド
土地支配と税制 東インド会社は1765年にムガル皇帝からベンガルなどのディーワーニー(徴税権)を与えられて領土化の端緒を掴み、税を通してインドを支配するようになった。1793年からベンガル地方ではザミンダーリー制という形で地主層から税を取る方式を導入、さらにライヤットワーリー制で農民から直接徴税してインド農村の富を収奪していった。これらの税制度の導入によって、村落共同体に強引に近代的土地私有制が導入された結果、インドの農村は解体され、農民は納税のために商品作物としての綿花の栽培に特化していくこととなった。
東インド会社の変質 この間、1773年に東インド会社規制法(ノースの規制法)を制定してベンガル知事に代わってベンガル総督を置きインド統治の統轄機関とした。本国で産業革命が進行し、産業資本家層が成長すると、彼らはまず国内で特許会社としての東インド会社の独占権に対する批判を強め、自由貿易を求めるようになった。その動きを受けて政府の姿勢も変化し。1813年東インド会社のインド貿易の独占権が廃止された。東インド会社のもう一方の活動範囲である中国においても1833年中国貿易での独占権廃止がなされた。これによって東インド会社の商業活動は停止となった。こうして東インド会社は貿易会社としての性格を失いインド統治機構として、徴税権の行使など植民地行政にのみあたることとなる。

インド大反乱とインド帝国の成立

 このような植民地支配に反発して1857年インド大反乱(シパーヒーの反乱、セポイの乱)が起きたが、東インド会社軍はそれを鎮圧し、ムガル皇帝を退位させたため、ムガル帝国の滅亡は確定した。
東インド会社の解散 さらにインド大反乱を発生させた東インド会社によるインド統治に対する批判が強まり、1858年、ついにイギリス東インド会社を解散させ、インドは本国政府が直接支配下におくこととした。
インド帝国の成立 1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国という形にして、形の上では独立国であるが実質的にイギリス帝国の一部に組み込んだ。こうしてインドは大英帝国と言われたイギリスの繁栄を支える植民地となったのである。
イギリスの分割統治 イギリスは直接統治地域以外には各地の土豪を藩王とする藩王国を認め、間接統治した。イギリスは内陸の綿花などの産物を積み出すためにインドの鉄道を進め、1853年4月、アジア最初の鉄道としてボンベイ(現ムンバイ)とその近郊ターネーを結ぶ路線を敷設した。また英語を強制するなど、植民地支配を進めたがその特徴は、藩王国に対してだけでなく、カーストの違いやヒンドゥー教とイスラーム教の対立を利用して、分割統治を行った。
 → イギリスのインド植民地支配(19世紀後半) インドの民族運動 インドの反英闘争(20世紀) インド(現代)・インド共和国