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ヴィジャヤナガル王国

14~17世紀、北インドのムスリム政権に対し、デカン高原以南の南インドで繁栄したヒンドゥー教国。インド洋交易で繁栄し、北インドのデリー=スルタン朝、ムガル帝国などと対抗した。16世紀初めに最盛期となったが、1565年にイスラーム勢力連合軍に敗れてから衰退した。1498年、ヴァスコ=ダ=ガマが来航後、ポルトガルとも交易した。

16世紀インド

16世紀末 ムガル帝国(アクバル帝)・ヴィジャヤナガル王国

 北インドに13世紀に成立したデリー=スルタン朝によって、インドのイスラーム化が進められていた時代に、南インド1336年に成立したヴィジャヤナガル王国は、ヒンドゥー教を奉じ、14~17世紀の約300年にわたり存続し、インド洋交易で繁栄していた。16世紀中頃以降は北インドを支配したイスラーム教国のムガル帝国に押されて衰退、1649年に滅亡した。 → インド(近代前)

ヴィジャヤナガル王国の成立

 北インドのデリー=スルタン朝の3番目にあたるトゥグルク朝は1320年代にデカン高原南部にも遠征し、一時インドほぼ全域を支配するに至った。しかし、その征服地では重税に対する反発が起き、ヒンドゥー教徒の中に自立の動きが強まって1336年にデカン高原南部にヴィジャヤナガル王国が生まれた。
 南インドには、かつてのチョーラ朝パーンディヤ朝などのヒンドゥー文化の伝統があったが、ヴィジャヤナガル王国もそれを継承していた。伝承によると、ハリハラとブッカという二人のヒンドゥー貴族がデリーのスルタンに捕らえられてムスリムに改宗させられたが、脱出して南インドに戻り、ヒンドゥー教に復帰して1336年、ドゥンガパドラー川のほとりに都を築きヴィジャヤナガル(勝利の都、の意味)と名付けたという。

バフマン朝などとのと対抗

 さらに 1347年にはその北部のデカン高原にイスラーム教徒の部将がバフマン朝(バフマニー王国)を建国した。北インドに後退したトゥグルク朝は、1398年にティムール帝国の侵入を受けて衰えたのに反比例して、南インドではバフマン朝とヴィジャヤナガル王国が繁栄し、両国が抗争を続けた。
 その後ヴィジャヤナガル王国は、系統の違う4つの王朝が交代したが、16世紀のクリシュナデーヴァラーヤ王(在位1509~29)の時に最盛期となった。ヴィジャヤナガル王国は強力な騎馬軍を有していたが、そこで必要となる軍馬は、インド洋交易を通じてアラブ商人から得ており、ポルトガル商人が進出してからは彼らとの交易によって馬を輸入した。
 ヴィジャヤナガル王国はそれらのイスラーム勢力と対抗してインド固有のヒンドゥー教(ヴィシュヌ派)の信仰を守り、領内ではサティ(寡婦殉死)などの風習が残っていた。国王が死ぬと400~500人の後宮の女性が王の死体と共に焼かれたという。16世紀にバフマン朝が5王国に分裂してからは、その中のビーシャプル王国とゴールコンダ王国がヴィジャヤナガル王国との抗争した。しかし、1565年、ターリコータの戦いでイスラーム5国連合軍に敗れて都を破壊され、衰退が始まり、1649年にビーシャプル王国に攻められて滅亡した。
ヴィジャヤナガル王国と馬の輸入 2013年度の山川出版社『詳説世界史』から、ヴィジャヤナガル王国の説明として「この王国はインド洋交易をつうじて西アジアから馬を大量に入手して軍事力を高め」という文が加わって注目された。同様の記述は東京書籍版にも見られる。また実教出版の『世界史B』では註で「北インドに成立したムスリム政権が南方に進出した影響で、戦闘の中心がそれまでの象と歩兵から騎馬に替わった。この変化により、13世紀以降、ペルシア馬とアラブ馬の貿易が重要になった」と具体的に説明している。
(引用)西アジアからインド洋の中心に位置するインド亜大陸に対する交易品目のもっとも重要なものが馬であった。西アジアから年に一万頭の馬が南インドのマラバール諸港やカンバーヤト(キャンベイ)その他の西インドの港に輸出されていたというが、ポルトガル商人たちは、年間3000~4000頭の騎馬をホルムズからマラバールに運び、ヴィジャヤナガル王国に供給していた。馬は、その軍事的機動性に必須のものであり、ヴィジャヤナガルの軍勢に占める騎兵の位置はきわめて重要であった。それは、バフマニー王国との熾烈な抗争の中で、イスラーム勢力が保持する騎兵の優秀さを痛感したデーヴァラーヤ2世による15世紀前半の軍事改革以来の伝統であるといってもよいだろう。・・・・<水島司他『世界の歴史』14 ムガル帝国から英領インドへ 1998 p.468>
 同書に依れば、全盛期のクリシュナデーヴァラーヤ王は1510年、ゴアのポルトガル長官アルブケルケに対して使者を送り敵国ビージャブルに優先して馬を売るよう約束させている。実際、王が買っていた頭数はホルムズ産と土地の産を併せて毎年1万3千頭に昇っていたと言われる。

ヴァスコ=ダ=ガマのインド到達

 ヴィジャヤナガル王国の支配下にあったデカンの農村地帯、西海岸のマラバール地方などには、実際には小藩国が多数分立していた。1498年5月、ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマがインド航路の開拓に成功しカリカットに到達したが、このときの南インドはヴィジャヤナガル王国の統治範囲に入っていたが、実質的には藩王が治めており、ヴィジャヤナガル王の直轄地ではなかった。
 ポルトガルが1510年に、ゴアを軍事占領し、商館を設けると、ヴィジャヤナガル王国はポルトガルとも積極的に交易を行い、ポルトガル商人から馬を手に入れるようになった。そして北方のイスラーム勢力との戦争では、この騎馬軍を使い、さらにポルトガル人傭兵も砲兵として利用した。
ポルトガル史料の伝えるヴィジャヤナガル王国 このころの繁栄の様子は、クリシュナデーヴァラーヤ王(1509年即位)の治世に都ヴィジャヤナガルを訪れた、ポルトガル商人ドミンゴ=パイスとフェルナン=ヌーネスの記録に詳しく残されている。
(引用)パイスによると、七重の城壁で囲まれたヴィジャナガル市は、世界中で最も物資の豊かな街として繁栄していたという。ヌーネスは、王国には二百人以上のカピタンがいて、領地を与えられる代わりに、貢納と一定の兵力を維持する義務を負わされていたと記している。このカピタンは、インドの史料では、ナーヤカと呼ばれる軍事指揮官で、王によって中央から派遣され、地方統治にあたっていた。彼らは、領地内で綿布などの生産を奨励し、海外貿易に熱心であった。<辛島昇『インド史 南アジアの歴史と文化』2021 角川ソフィア文庫 p.105>

滅亡と復興

 北インドは1526年にムガル帝国が成立した。しかしまだ南インドにはその勢力は及ばず、デカン高原には5つのイスラーム教国が存在してた。これらの諸国はスンニ派、シーア派に分かれて反目していたが、ヴィジャヤナガル王国との戦いでは連合軍をつくって戦った。1565年1月、ターリコータでヴィジャヤナガル王国とイスラーム教5国連合軍の戦いが行われ、敗れた王国軍は指導者ラーマラージャが処刑された。都は略奪され短期間のうちに荒廃した。ヴィジャヤナガル王国はその後も南インドで存続したが、1649年、イスラーム教国ビーシャプル王国に攻撃されて滅亡した。
 こうして南インドに残っていた唯一のヒンドゥー王国も潰え去り、全インドがイスラーム教徒の支配下に入った。南インドにはその後、17世紀の後半ムガル帝国のアウラングゼーブ帝によって征服され、厳しいヒンドゥー教徒迫害が行われた。それに反発して、ヴィジャヤナガル王家の血筋を引くヴォディヤール家が18世紀後半に自立してマイソール王国がヒンドゥー教の王国を再建する。マイソール王国はイギリス植民地化に激しく抵抗(マイソール戦争)を展開することとなる。

宗教対立史観に囚われないようにしよう

 ヴィジャヤナガル王国は17世紀にイスラーム勢力によって滅ぼされてからは、都のヴィジャヤナガル(現在のハンピの町)も荒廃し、20世紀に西欧の学者によってその存在が知られるようになるまで、「忘れられた王国」となっていた。再発見後は、インドにおけるヒンドゥー=ナショナリズムが盛んになるに伴って注目を集め、現在ではイスラームという外来勢力に抵抗してインド独自の文化を守った国、として盛んに称揚されている。しかし、ヴィジャヤナガル王国がムスリム的な要素をすべて排斥していたかというとそうではなく、その軍隊にはムスリム兵も存在し、また王も(イスラーム国家の称号である)スルタンを称していたとも言われている。ヒンドゥー教国かイスラーム教国かを厳密に色分けするのは、現代の宗教ナショナリズム(コミュナリズム)によってゆがめられた見方であると考えた方が良さそうだ。