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アッシジのフランチェスコ

13世紀初め、フランチェスコ会を創始したキリスト教修道僧。清貧に徹底した信仰を説き、ローマ教皇権全盛期の教皇インノケンティウス3世から修道会設立を承認され、托鉢修道会運動を開始した。

 アッシジのフランチェスコ(1181?~1226)はイタリアの修道士で、清貧を守ったことで知られ、ローマ教会では聖人に列せられている。1210年、ローマ教皇インノケンティウス3世の前に現れたフランチェスコたちは、裸足で痩せ細り、ぼろぼろの修道衣をまとい、ベルトの代わりに荒縄を締めていた。かれらはアッシジからやってきた修行者たちで、キリストの教えに従って清貧を守り、家族を捨て托鉢だけで命をつなぎながら、祈り、説教を続けていた。インノケンティウス3世は、一歩間違えば当時勢力を強めていたカタリ派ワルド派などの異端につながりかねないと警戒したが、むしろ彼らの活動を公認して、異端の改宗にあたらせようと考えたのであろう。こうして、フランチェスコの活動は正式のフランチェスコ会修道会として托鉢修道会と認められ、13世紀以降の新しい修道院運動の中心となっていく。

Episode 小鳥との会話と聖痕

 修道会から離れた晩年のフランチェスコは、孤独な隠棲生活に入り、森の中の小屋に住み、小鳥たちに説教をしたと伝えられている。小鳥たちは枝から地上に降りてきて、さえずりをやめて彼の言葉に聞き入り、祝福をあててもらうまで飛び立たなかったという。また、晩年には天使が十字架をかかげている夢からさめたところ、両手両足と脇腹の五ヵ所に傷が出来ていた。それは、十字架上のキリストが受けた傷と同じ場所であったという、「聖痕(スティグマ)の奇蹟」といわれている。<この項、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』第3話 聖フランチェスコの物語 による>

フランシチェスコ会の設立

(引用)1210年、早春のある日のことである。中世ローマ法王権の歴史にかつてない権勢の一時代を画した法王イノセント3世は、ラテラノ宮の奥深い一室で、みなれぬ一人の訪問者と話し合っていた。この訪問者は、やせぎすの中背、やや中高の細面、平たく低い前額の下には一重の黒目がのぞき、鼻と唇はうすく、耳は小さくとがり、頭髪もひげもうすい。変哲がないというより、むしろ貧相なこの訪問者を特徴づけていたのは、しかし、そのやわらかな物腰と、歌うようなこころよい声音であった。だが、その風態は少なからず変わっている。長い灰色の隠修士風のマントは、腰のあたりで荒縄でしばられており、裾からとびだしている足は裸足であった。<堀米庸三『正統と異端』1964 中公新書 p.4>
 フランチェスコは1182年、中部イタリア、ウンブリア地方のアッシジで、富裕な織物商人の子として生まれた。しかし不肖の子で実務を嫌い、享楽に溺れ、夢に導かれて南イタリアのおもむき、ドイツの神聖ローマ帝国を二分したホーエンシュタウフェン家とゲルフ家の戦争に参加した。そこで捕虜となり、熱病にもかかり、その肉体の苦痛から回心を経験し、20歳で修道士となった。アッシジの近郊で祈祷と廃寺の修復、癩患者の看病を続けるうち、1208年に戒律に従った「主の家」を再建せよという神の声を聞き、マタイによる福音書にあるとおりの三カ条だけを会則とした修道会を発足させた。はじめはフランシスの説教を聞いた二人だけが会員だった。これがフランチェスコ会(当初は「小さき兄弟団」)のはじまりであった。その後、フランチェスコ会が托鉢修道会として正式に認可されるのは1223年のことであり、1226年にはフランチェスコは死を迎える。
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書籍案内

川下勝
『アッシジのフランチェスコ』
Century Books―人と思想
2004 清水書院
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