ワルド派
中世キリスト教の異端とされた一派。12世紀にフランスのリヨンで盛んになったが弾圧された。
中世のフランス王国の主要都市の一つリヨンの富裕な商人であったピエール=ワルドーが、1173年に、吟遊詩人のうたう聖者アレクシスの物語に感動し、その家財をなげうって、使徒の生活にならった清貧を実践しながらキリストの福音を広めようとした。彼らは、民衆に聖書の教えを広めようと、ラテン語聖書のフランス語口語訳を作ったが、これは中世における聖書の口語訳の先駆として注目される。その信奉者は「リヨンの貧者たち」と言われ、リヨンを中心にフランス南部に広がっていった。当初は熱心な布教団体としてローマ教会からも認められていたが、ローマ教皇庁は彼らの活動が教会の聖職者の統制の外で広がっていくことに警戒するようになった。
聖母マリアを「キリストの母(クリストコス)」とするのはネストリウス派の考えであり、エフェソス公会議で否定され、三位一体説を正統とするローマ教会ではマリアは「神の母・神をはらんだもの」(ギリシア語でテオトコス、ラテン語では「主の母」マーテル=ドミニ)とされていた。このような些末な専門用語のひっかけ問題でワルド派は否定され、正式には1184年に異端と断定された。 → キリスト教
ワルド派は12世紀に現れたカタリ派(アルビジョワ派)と同じく、イエスの時代に帰り、清貧を有るべき信仰の姿と考えて実践したが、それは大領主として華美な生活をすでに知ってしまったカトリック教会のローマ教皇以下の高位聖職者にとっては、自己の権力や富を否定されることであるので、異端として弾圧したのだった。しかし、ワルド派はリヨンからイタリアのロンバルディア、さらにドイツ、スペイン、ボヘミアに広がっっていった。カタリ派は南フランスのアルビを中心としてトゥールーズ伯領にかたまっており、13世紀のローマ教皇インノケンティウス3世以来、武力で弾圧され、1229年に消滅する。
異端として弾圧される
1179年、教皇庁はワルド派の信仰に対し、神学者に審判に当たらせた。審問官が「キリストの母を信じるか」という問いに対して、ワルド派の信者たちが信じると答えると、審問官一同は爆笑して審理を切り上げ、彼らは「無学文盲」の徒にすぎず宗教運動と認められないと結論を出した。聖母マリアを「キリストの母(クリストコス)」とするのはネストリウス派の考えであり、エフェソス公会議で否定され、三位一体説を正統とするローマ教会ではマリアは「神の母・神をはらんだもの」(ギリシア語でテオトコス、ラテン語では「主の母」マーテル=ドミニ)とされていた。このような些末な専門用語のひっかけ問題でワルド派は否定され、正式には1184年に異端と断定された。 → キリスト教
ワルド派は12世紀に現れたカタリ派(アルビジョワ派)と同じく、イエスの時代に帰り、清貧を有るべき信仰の姿と考えて実践したが、それは大領主として華美な生活をすでに知ってしまったカトリック教会のローマ教皇以下の高位聖職者にとっては、自己の権力や富を否定されることであるので、異端として弾圧したのだった。しかし、ワルド派はリヨンからイタリアのロンバルディア、さらにドイツ、スペイン、ボヘミアに広がっっていった。カタリ派は南フランスのアルビを中心としてトゥールーズ伯領にかたまっており、13世紀のローマ教皇インノケンティウス3世以来、武力で弾圧され、1229年に消滅する。