異端
正統に対して、誤った信仰として否定された教説とその一派をいう。特にキリスト教はローマ帝国の国教となったことでアタナシウス派が正統として、公会議で様々な異端説は排除されていった。中世ヨーロッパでは魔女裁判による異端摘発が行われるようになり、特に16世紀の宗教改革後は新旧両派がそれぞれ他派を異端として批判し合った。
キリスト教において、教会によって公認された教である正統(orthodox)に対し、間違えた教義、有害な教義とされ、否定されてた教義を奉じる教派を異端(heresy)といった。キリスト教の場合は、イエスの教えをどう理解するかで様々な説が生まれ、ローマ教会の権威が確立する過程で公会議(高位聖職者による教皇諮問機関)において正統か異端かを判定し、異端と断定されればキリスト教とは認められず破門される、という厳しい教団統制が行われた。
イスラーム教では多数派であるスンナ派に対して少数派のシーア派が異端として説明されることがあるが、この場合はキリスト教における公会議は存在せず、少数派であってもイスラーム教としては扱われるので、キリスト教と同じような正統と異端の関係ではない。
それ以降にも、グノーシス派、ドナートゥス派、ネストリウス派、単性説などが異端として排除されていった。
キリスト教の教義において問題となるのは、単純化して言えば、主としてイエスは神であるか、人であるか、あるいはその両方であるのか、という論争であった。三位一体説が正統教義として確立してイエスは神性と人性の両面をもつとされたわけだが、イエスの神性か人性のいずれかだけをもつと主張するものが異端とされることが多かった。
7世紀にイスラーム教が成立し、その脅威がビザンツ帝国に及んできたことを背景にして726年にビザンツ皇帝が出した聖像禁止令に端を発した聖像崇拝問題では、ローマ=カトリック教会とコンスタンティノープルの両教会はともに三位一体説を掲げていたにもかかわらず、聖像の解釈で対立し、ついに1054年に互いに破門しあって分離した。
まず、12世紀のフランスにおいて、南フランス一帯にカタリ派(アルビジョア派)とワルド派(リヨンの貧者たち)などが生まれ、彼らは次第に教会の聖職者制度を否定するなど、ローマ教会にとって危険な存在と考えられるようになり、異端として弾圧されるようになった。
1210年、インノケンティウス3世はフランチェスコと会見し、彼が始めた托鉢修道会であるフランチェスコ会を正式認めることに踏み切った。フランチェスコの思想は徹底した清貧を特もので、従来ならば異端とされるべきものであったが、ここでインノケンティウスは民衆信仰の一部を取り込むことで、教皇権威の安定をはかったと言える。
それと並行して、教会の腐敗・堕落を批判して信仰の深化を目指した修道士たちによる修道院運動がふたたび盛んに起こっている。13世紀のドミニコ会などの托鉢修道会は厳しい修養と自らに課すと共に、異端取り締まりの先頭に立ち、異端に対する激しい攻撃を行うようになった。
1414年のコンスタンツ公会議では聖書中心の信仰を説いたウィクリフとフスを異端として断じて処刑した。一方ではルネサンスでのヒューマニズム思想は、文学や科学の面でも新しい知見をもたらし、教会の権威を揺るがすこととなったが、カトリック教会は地動説を異端とするなど、その動きに背を向けていた。
イスラーム教では多数派であるスンナ派に対して少数派のシーア派が異端として説明されることがあるが、この場合はキリスト教における公会議は存在せず、少数派であってもイスラーム教としては扱われるので、キリスト教と同じような正統と異端の関係ではない。
キリスト教の正統と異端
キリスト教が313年にコンスタンティヌス帝の出したミラノ勅令によって、ローマ帝国で公認されてから、国家との結びつきを深めたため、教義の統一が必要とされるようになった。325年にコンスタンティヌス帝によって招集されたニケーア公会議ではアタナシウス派の三位一体説が正統とされたのに対して、アリウス派が異端とされた。それ以降にも、グノーシス派、ドナートゥス派、ネストリウス派、単性説などが異端として排除されていった。
キリスト教の教義において問題となるのは、単純化して言えば、主としてイエスは神であるか、人であるか、あるいはその両方であるのか、という論争であった。三位一体説が正統教義として確立してイエスは神性と人性の両面をもつとされたわけだが、イエスの神性か人性のいずれかだけをもつと主張するものが異端とされることが多かった。
7世紀にイスラーム教が成立し、その脅威がビザンツ帝国に及んできたことを背景にして726年にビザンツ皇帝が出した聖像禁止令に端を発した聖像崇拝問題では、ローマ=カトリック教会とコンスタンティノープルの両教会はともに三位一体説を掲げていたにもかかわらず、聖像の解釈で対立し、ついに1054年に互いに破門しあって分離した。
教会の封建領主化
ヨーロッパの中世封建社会においては、ローマ教皇を頂点とした教会と修道院の上位聖職者は世俗の権力から土地を寄進され、封建領主としての性格を併せ持つようになり、それとともにその生活も華美となり、その地位は売買の対象となったり、聖職者のなかには妻帯するものもあらわれるようになった。このような教会のいわば堕落が表面化するに従って修道院運動という教会改革運動が起こってきた。グレゴリウス改革
その代表的な動きが910年、フランスに生まれたクリュニー修道院であった。クリュニー修道院はベネディクト派の修道院の規則を厳密に守り、聖職売買と聖職者の妻帯を非難する改革派の聖職者を出現させた。そのような改革派の影響を強く受けて1073年にローマ教皇となったグレゴリウス7世は、「グレゴリウス改革」といわれる教会改革を断行すると共に、聖職者叙任権を皇帝以下の俗人から奪回した。それをを拒否した神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世を破門し、1077年、「カノッサの屈辱」で屈服させたことは、この叙任権闘争を通して、ローマ教皇権が確立したことを示す出来事であった。中世の異端
また、キリスト教が村落社会に深く根ざしていくにともない、民衆のなかに自然発生的な独自のキリスト教信仰が興ってきた。彼らはイエスの本来の姿である清貧と厳格さを正しい信仰として求めるようになると、それは教会の批判、教皇や聖職者の権威の否定へと向かう恐れが出てきた。まず、12世紀のフランスにおいて、南フランス一帯にカタリ派(アルビジョア派)とワルド派(リヨンの貧者たち)などが生まれ、彼らは次第に教会の聖職者制度を否定するなど、ローマ教会にとって危険な存在と考えられるようになり、異端として弾圧されるようになった。
フランチェスコ会の公認
11~12世紀、叙任権闘争を皇帝と争いながら次第に優位を占めていったローマ教皇は、十字軍運動を提唱してヨーロッパ全体を主導するようになり、特に13世紀の教皇インノケンティウス3世の時期に、その権力の絶頂期を迎えた。しかし、その反面、ローマ教会の権威を否定する異端に対しては、難しい判断を迫られた。1210年、インノケンティウス3世はフランチェスコと会見し、彼が始めた托鉢修道会であるフランチェスコ会を正式認めることに踏み切った。フランチェスコの思想は徹底した清貧を特もので、従来ならば異端とされるべきものであったが、ここでインノケンティウスは民衆信仰の一部を取り込むことで、教皇権威の安定をはかったと言える。
異端審問・宗教裁判
インノケンティウス以降は、ローマ教皇公認の修道会が、反教会的な異端の取り締まりの最前線の役割を担うこととなる。それとともに異端取り締まりは苛酷となり、村落内の異分子を探し出し異端として弾劾することで秩序を維持する傾向が出てきた。そこで盛んに行われるようになったのが魔女裁判(魔女狩り)であった。それと並行して、教会の腐敗・堕落を批判して信仰の深化を目指した修道士たちによる修道院運動がふたたび盛んに起こっている。13世紀のドミニコ会などの托鉢修道会は厳しい修養と自らに課すと共に、異端取り締まりの先頭に立ち、異端に対する激しい攻撃を行うようになった。
教皇権の動揺と異端審問
14世紀ごろになるとアナーニ事件や教会の大分裂によって教皇権が衰退し、教皇や教会を批判する聖職者も現れてきた。このような教会の危機が強まると、反動として異端審問(宗教裁判)はますます強化され、異端弾圧は数も増していった。1414年のコンスタンツ公会議では聖書中心の信仰を説いたウィクリフとフスを異端として断じて処刑した。一方ではルネサンスでのヒューマニズム思想は、文学や科学の面でも新しい知見をもたらし、教会の権威を揺るがすこととなったが、カトリック教会は地動説を異端とするなど、その動きに背を向けていた。
宗教改革
16世紀以降はローマ=カトリック教会は宗教改革の嵐に曝されることとなり、ルターを破門してその勢力を抑えようとしたが、カルヴァンなどのプロテスタント諸派が次々と生まれ、諸侯や農民のあいだに拡がっていった。徐のような情勢の中でローマ教皇への絶対の服従をかかげるイエズス会が生まれ、ローマ教会側の改革である対抗宗教改革も進められた。宗教戦争
こうしてキリスト教両派の対立は16~17世紀に激しい宗教戦争となってヨーロッパ全土を覆った。そのなかで、カトリックとプロテスタントは互いに異端として排除し合い、悲惨な殺し合いを続けたが、異端裁判や魔女狩りはカトリック国のスペインなどだけでなく、プロテスタント側でもさかんに行われている。またイギリスでは国教会が国家の正統な教会として確立するが、その過程でカトリックやカルヴァン派のピューリタンとの激しい宗教対立を繰り広げた。異端と破門の終焉
17~18世紀にヨーロッパ各国が主権国家としてのあゆみをはじめると共に、国民の統合を図る必要から、政治と宗教の分離と宗教への寛容を建て前とすることが多くなった。それは市民革命でさらに徹底された。その中で、カトリック教会も異端や破門を振りかざすことはなくなった。カトリック教会でも長く続けていた異端審問や宗教裁判について、ようやく20世紀に入って第2ヴァチカン公会議においてローマ教皇がその過ちを認めたのだった。1971年2月4日、ローマ教皇庁は「今後は異端および破門という呼び方、考え方を無くする」と発表し、ここに異端と破門の問題は終結した。