ドミニコ会
13世紀初め、スペインで創設された托鉢修道会。異端の取り締まり、改宗に熱心であった。
1206年、スペイン出身のドミニコ(ドミニクス)らが、インノケンティウス3世から南フランスで異端として勢力を持っていたカタリ派の改宗のために派遣されたことに始まる。シトー派も異端改宗に派遣されたが、ドミニコらの活動は多くの改宗者を生み、1216年にローマ教皇から修道会として承認された。彼らは信者の寄付によって生活していたので「托鉢修道会」とか「乞食僧団」と言われた。ドミニコ派修道会(ドミニコ会)は、中央集権的な組織を持ち、異端の改宗と取り締まりの先頭に立って活動した。また、熱心な信仰の名から高名な神学者を排出し、パリ、ボローニャ、ケルン、オックスフォードなどの大学に神学教授を提供した。トマス=アクィナスもドミニコ派修道士として出発した。
ドミニコは教会だけでなく、町の広場や辻で説教や討論をし、異端者たちにも優る敬虔と清貧にもとづく布教活動をおこない、1208年、教皇インノケンティウス3世から「カトリックの貧者」という正式の説教兄弟会として認可が与えられた。その後、トゥールーズに拠点を移し、南フランスだけでなくスペイン、イタリアの異端者たちをカトリック教会に連れ戻し、大きな功績を挙げた。
1215年、ドミニコは新しい修道会の認可を求めてローマに赴いた。当時、「説教」は司教だけに認められた特権だったが、ドミニコは説教を自らの固有の職務として、いつでもどこでも行使できるよう要請した。当時開催中であったラテラノ公会議では新しい修道会の設立は禁止されていたが、最終的には1217年1月21日づけ(現行太陽暦では1216年)の教書で、ホノリウス3世が正式に新修道会を承認した。
→ スペインのユダヤ人改宗者、コンベルソ
ドミニコ(ドミニクス)の活動
ドミニコ(1170~1221)はスペイン出身で、司教ディエゴのもとで、1203年ごろに律修聖堂参事会の副院長となり、デンマークへの旅の途中、南フランスを通過するとき、カタリ派の激しい民衆運動を体験した。1204年、ローマを訪れて教皇に面会、教皇からカタリ派の改宗のための説教を託された。南フランスのラングドック地方の町、プルイユで活動したディエゴとドミニコらは、カタリ派からカトリックに改宗した女性たちのために一軒の家を建てた。それがのちのドミニコ観想修道女会の母体である。1207年、ディエゴの死去によってドミニコが活動を引き継ぐこととなった。ドミニコは教会だけでなく、町の広場や辻で説教や討論をし、異端者たちにも優る敬虔と清貧にもとづく布教活動をおこない、1208年、教皇インノケンティウス3世から「カトリックの貧者」という正式の説教兄弟会として認可が与えられた。その後、トゥールーズに拠点を移し、南フランスだけでなくスペイン、イタリアの異端者たちをカトリック教会に連れ戻し、大きな功績を挙げた。
1215年、ドミニコは新しい修道会の認可を求めてローマに赴いた。当時、「説教」は司教だけに認められた特権だったが、ドミニコは説教を自らの固有の職務として、いつでもどこでも行使できるよう要請した。当時開催中であったラテラノ公会議では新しい修道会の設立は禁止されていたが、最終的には1217年1月21日づけ(現行太陽暦では1216年)の教書で、ホノリウス3世が正式に新修道会を承認した。
ドミニコ会のプログラム
ドミニコ派修道会(ドミニコ会)の精神は「観想し、観想の果実を他の人びとに述べ伝えよ」という言葉によくあらわれている。そのほか、次のような行動原則を掲げた。- 個人的「使命」である。(従来の修道院のような、規律に従って上長の命令を守り、一個所に定住するという集団に埋没するのではない)
- 委託された職務は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という「福音の宣教」である。
- 簡単で厳しい生活の実践、つまり完全な清貧。私有であれ共同体のものであれ財産はいっさい所有してはならない。「帯のなかに金貨も銅貨ももってはならない」
- 「巡回」つまり旅をしなければならない。人を待っていてはいけない。町や村、どこでも休むことなく素早く赴く「キリストのための遍歴」
- 巡回は二人一組でなければならない。「兄弟のように親密な愛徳を実践するには二人で足りる」
主なドミニコ会員
ドミニコ会員でキリスト教(カトリック)の発展に功績のあった主な人物には次のような人々がいる。- アルベルトゥス=マグヌス(1193頃-1280):ドイツのケルンで活躍。アリストテレスの研究で知られ、錬金術も研究した。トマス=アクィナスの師。1932年に聖人に列せられた。
- トマス=アクィナス(1225頃~1274):スコラ哲学の代表的神学者で『神学大全』を著す。1323年、聖人。
- トルケマダ(1420-1498):スペインの初代異端審問所長。最も激しく異端審問を行った。
- サヴォナローラ(1452-1498):イタリア戦争で混乱したフィレンツェで神権政治を行い、維持寺実験をⅡ魏他が、最後は焚刑に処せられた。
- ラス=カサス(1484-1566):新大陸で布教するうち、スペインのインディオに対する苛酷な収奪を告発した。
- ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600):コペルニクスの地動説を擁護し、異端として焚刑に処せられた。
「神の犬」と言われる。
16世紀に宗教改革が始まると、ドミニコ会や新設のイエズス会などの教団は対抗宗教改革(反宗教改革)の運動を起こし、プロテスタントやカトリック教会の改革派に対する攻撃の先頭に立ち、とくにトリエント公会議後は、宗教裁判所を舞台に、さかんに異端審問を行った。ドミニコ派は、語呂合わせで「神の犬 Domini canes」(ドミニ・カネス)と言われ、特に熱心に異端者摘発にあたった。<田中一郎『ガリレオ裁判』2015 岩波新書 p.16>→ スペインのユダヤ人改宗者、コンベルソ