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正統帝

明の皇帝で、1449年、土木の変でオイラトのエセン=ハンと戦って敗れ捕虜となった。1年後に送還され、クーデターで復位し天順帝となる。

 の第6代皇帝(在位1435~1449年)で英宗が皇帝名で、正統帝は謚(おくり名)。土木堡の戦いで敗れて捕虜となったため、不在の北京では別な皇帝が立てられた。英宗は後に送還され、宦官勢力に担がれて、皇帝に復位し、第8代天順帝となった(在位1457~1464年)。このように二度、皇帝になるという珍しいケースであった。皇帝の諡号(おくりな)としては正統帝と天順帝の二つを持つが、廟号(廟に贈られた号)は「英宗」だけである。なお、天順帝復位によって帝位を負われた景泰帝には諡号も廟号も贈られなかった。

土木堡でモンゴルの捕虜となる

 最初の在任中は、農民(小作農)の反乱である鄧茂七の乱が起こり、宦官勢力も強まり、明朝の諸問題が明確となり、態勢の立て直しに迫られた。そのような中、モンゴルを再び統一して有力となったオイラト部のエセン=ハンが、通商の拡大を要求してきた。それを過大な要求と捕らえた明朝が拒否すると、エセンは明に対する武力攻勢に出てきた。
 正統帝(英宗)は、宮廷で実権を握る宦官の王振に、皇帝みずから部隊を率いて遠征すればモンゴル軍はすぐに撤退すると進められ、1449年に出征した。しかし、土木堡でエセン=ハンのモンゴル軍に急襲されて大敗、皇帝みずから捕虜となるという屈辱的大敗を喫した。これが土木の変である。エセンの率いるモンゴル軍はさらに北京を目指した。

再び皇帝となる

 正統帝が捕虜となったことを聞いた北京の官僚は恐怖にかられ、正統帝の弟を立てて景泰帝とし、軍人于謙を中心に籠城した。エセンには北京を征服する意図はなく、まもなく撤退、1年後には正統帝も釈放され、北京に戻った。しかし、すでに新帝が即位しているので前皇帝の扱いに官僚が苦慮ししていると、宦官は勢力回復のために正統帝を復位させようと画策、クーデターで于謙を殺害、景泰帝を退位させて、正統帝は天順帝として再び帝位につくこととなった。しかし、天順帝は積極的に政治に関わることなく、宮廷の実権は宦官勢力が握ることとなった。明朝はこの後も1644年まで2百年も続くが、かつての永楽帝の時代の繁栄を取り戻すことはできなかった。
クイズ 正統帝は二度も皇帝になった珍しい人である。それでは世界史上(中国に限らず)、同じように2度(あるいはそれ以上)も皇帝になった人を二人あげなさい。

答え

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