エセン=ハン
モンゴル系オイラトの族長。15世紀に統一を復活させ明を圧迫し、1449年には土木の変で正統帝を捕虜にした。
モンゴルは1388年に明の洪武帝によって北元が滅ぼされてから、しばらく停滞を余儀なくされたが、その後、明で靖難の役の混乱が起こると勢力を回復した。
土木の変で大勝利をおさめたエセンはさらに首都北京を包囲して大きな脅威を与えた。エセンは北京を包囲し、捕虜となった正統帝を送還して復位させようとしてたが、明側は新帝を建てて応じなかったのでモンゴルに戻った。エセンの狙いは、交易の拡大であって、中国本土の征服ではなかったので、一定の利益を得られたことで充分であった。
永楽帝親征後のモンゴル
しかし、靖難の役を乗りきった永楽帝が、1410年から24年まで、5度にわたりモンゴルを親征(自ら軍を率いて出征)したことによって再び後退せざるを得なかった。この間、モンゴルには、かつての北元(フビライ王朝)を継承した部族を明側が韃靼(タタール部)と呼んでいたが、永楽帝の親征がおわることにはそれとは別にモンゴル族の中のオイラトが有力となってきた。土木の変の勝利
オイラト部の部長(族長)エセンがまずモンゴル全体の実権を握り、モンゴル高原とシベリア南部を支配するようになった。エセンは明朝に朝貢し、その利益を上げようとしたが、明側は朝貢を制限ししたため、エセンは不満を強めた。1449年、明の正統帝はオイラトを力で服従させようと親征したが、土木堡でエセンの率いるオイラト軍によって捕虜になってしまった。これが土木の変である。土木の変で大勝利をおさめたエセンはさらに首都北京を包囲して大きな脅威を与えた。エセンは北京を包囲し、捕虜となった正統帝を送還して復位させようとしてたが、明側は新帝を建てて応じなかったのでモンゴルに戻った。エセンの狙いは、交易の拡大であって、中国本土の征服ではなかったので、一定の利益を得られたことで充分であった。
オイラト部の瓦解
オイラトのエセンはその後、モンゴルのハン位の争いに介入し、北元以来のモンゴル皇族を殺害して1453年に自らハーンとなった。しかし翌年、部下の大臣が反乱を起こし、逃げる途中に殺され、オイラト帝国はたちまち瓦解した。