オイラト
明代以降のモンゴル高原西部の遊牧民族に対する呼称。エセン=ハンの時有力となり、1449年の土木の変で明の正統帝を捕虜とする。
モンゴル民族の中の有力部族で、チンギス=ハン一族と婚姻関係を持ち、モンゴル帝国解体後もモンゴル高原西部を中心に活動していた。明では「瓦刺」(”わら”と読む)という漢字が当てられた。オイラートと表記されることがあるが、それは誤り。15世紀に強大化し、一時その族長エセンが全モンゴルを統一し、エセン=ハンを称した。
エセンは北京を包囲したが、明は新皇帝を立てて抵抗したため、モンゴル軍を撤退させた。エセンはこの勝利によってモンゴルでの地歩を固め、モンゴル全部族の大ハーンの地位についた。しかし、オイラトはチンギス=ハンの直系部族ではないので、エセン=ハンの即位には反対する勢力も多く、エセン自身も部下に離反されて暗殺され、モンゴルは再び分裂した。
エセン=ハンの勝利
エセンは、明に対して朝貢貿易の拡大を要求したが拒否されたため、明に軍事的圧力を加え、反撃してきた明軍を1449年には土木堡の戦いで破り、親征した皇帝正統帝(英宗)を捕虜とするという、土木の変での勝利を得た。エセンは北京を包囲したが、明は新皇帝を立てて抵抗したため、モンゴル軍を撤退させた。エセンはこの勝利によってモンゴルでの地歩を固め、モンゴル全部族の大ハーンの地位についた。しかし、オイラトはチンギス=ハンの直系部族ではないので、エセン=ハンの即位には反対する勢力も多く、エセン自身も部下に離反されて暗殺され、モンゴルは再び分裂した。
モンゴルのその後
その後、モンゴル高原東部のモンゴル人の中には、チンギス=ハンの直系で、フビライ王朝につながるとされる部族が有力となった。彼らは明側からは韃靼といわれ、タタール(厳密にはタタルが正しい)が有力になり、その中からダヤン=ハン、ついでアルタン=ハンが台頭する。17世紀にジュンガルとして知られるモンゴル系部族が中央アジアに勢いを盛り返したが、1757年、清に討たれ滅亡した。<宮脇淳子『最後の遊牧帝国』講談社選書メチエ 1995>