張居正
16世紀末、明朝末期、万暦帝時代の政治家で、北虜南倭による財政困窮からの再建に務めた。
明の神宗万暦帝の最初の十年(1572年から1582年)、政務を担当した内閣大学士。万暦帝は十歳で即位したので、張居正が実権を揮い、1567年から内閣大学士として諸改革にあたった。当時の明は、北虜南倭に対する莫大な軍事費の出費で財政が困窮していたので、張居正はまず行政改革を実行して役人の数を減らし、また土地調査(検地)を実施して課税対象の土地を増やし、新しい税制である一条鞭法を普及させた。張居正の財政再建計画は成功し、明の国庫は安定した。また、長く明朝の基本だった海禁(民間貿易・民間人の会渡航の禁止)を停止し、民間の海外貿易と中国人の海外渡航を認めた。その背景にはポルトガル商人の来航という新たな情勢があった。またモンゴルのアルタン=ハンが求めていた交易も認め、北方での先頭はやみ、大同などの馬市でのモンゴルと明の交易が始まった。
Episode 名宰相、死して罪人となる
張居正は名宰相として惜しまれながら世を去った(1582年)。するとそれまでなりをひそめていた保守派・反対派はいっせいに攻撃し始めた。その攻撃材料とされたのは、以前張居正の父が死んだとき、かれが喪に服さず、内閣大学士の職にとどまり北京を離れなかったことと、神宗の結婚式の時、彼は服喪の身でありながら喪服を脱ぎ、礼服を着用したことという問題であった。当時中国では父母の死にさいしては官職を辞して郷里に帰り、服喪すべきであり、それをしないのは最大の不幸であると考えられていたので、張居正の実務優先の態度は保守派の非難の的になったのだった。神宗はこの動きに圧されて、張居正の官位を剥奪、家産を没収、家族を辺境に流す処置を執った。名宰相とされた張居正も死後このようにして罪人とされてしまったのだった。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.385~388>