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一条鞭法

明代の銀の流通に伴って始まった税制。唐以来の両税法の現物納と労役の二本立ての税制を、いずれも銀納として税収を確保しようとした。清の地丁銀の前提となる。

 に行われていた税制で、賦役のうち、土地税である田賦は、8世紀以来の両税法によって、夏税と秋税に分かれ、米麦や生糸などの現物で納める規定であったが、の流通が広まるに従い、15世紀前半から、銀納が始まってきた。明では田賦の他に、徭役(義務労働)が課せられており、官庁で必要な労役を提供させられ、こちらの方が負担は重かった。徭役は各戸の丁数(成年男子の数)や財産によって3~9等の等級に分け、上等戸には重い役、下等戸には軽い役が割り振られることになっていたが、こちらも銀で代納することが始まっていた。いずれにせよ、この税制では、税額は一定せず、戸の等級の分け方も不明確で、不正が横行しやすく、確固たる税収入を得るためには何らかの改革が必要となってきた。また、賦役黄冊や魚鱗図冊と言った当初の明の税制のための台帳も、農村の中の貧富の差が拡大し、里甲制が崩れて来たため、作成されなくなっていた。そこで新しい税制として登場したのが一条鞭法である。

一条鞭法のポイントとその施行

 一条鞭法は16世紀の中頃から徐々に始まり、1580年代の万暦帝の頃に全国に普及した、明の新しい税制である。複雑な内容をもっているが、まとめると「あらゆる賦税と徭役を一本化し、徴収を簡素化し、銀納にしたこと」と言える。これによって両税法は行われなくなり、戸の等級で労役を割り当てることもなくなった。この税法を運用するためには、課税対象である人口と土地の面積を掌握する必要があり、そのために張居正の改革の時に全国的土地丈量が行われたのであった。

一条鞭法の意義と影響

 一条鞭法は、銀の流通の浸透、大土地所有の進行、商品作物の発展に伴う地主と佃戸(小作農)の関係の変化、などに対応した税制改革で、唐の両税法の施行と並ぶ中国税制の大改革とされている。なお、このとき賦税(土地税)と徭役(人頭税)の区別がなくなったわけではなく、いずれも銀納となったのであり、次の清の18世紀の新税制である地丁銀制度によって、徭役(丁銀)が土地税(地銀)に組み込まれて消滅し、近代的な税制へと移行する。一条鞭法は地丁銀制度の先駆的な形態であった。
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