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万暦帝

明末期の皇帝。はじめは張居正の改革が行われたが、次第に官僚と宦官の対立が深刻となる。豊臣秀吉の朝鮮侵入などの困難に苦しみ、明朝の衰退が明らかになる。

 の第14代皇帝(在位1572~1620年)。諡号が万暦帝で廟号が神宗。10歳で皇帝となり、始めの十年は名宰相張居正の改革によって財政再建に成功し、国庫は潤うことになったが、その死後は再び放漫な宮廷財政に逆戻りし、たちまち国庫は底をついてしまった。また、宦官の政治への介入が激しくなり官僚の反宦官派である東林派との激しい党争が始まった。

明末の社会変動

 万暦帝の治世は、周辺の諸民族の反乱、朝鮮半島への日本の豊臣秀吉の侵略に対する出兵など対外的な問題に加え、国内では抗租奴変民変などの社会問題が表面化し内外の困難が生じ、明の衰退がはっきりとしてくる時期であった。万暦帝のとき、1580年代から普及した、新しい税制である一条鞭法もそのような社会の変化に対応するものであった。
 またこの時期、ヨーロッパ人の渡来も多くなり、イタリア人マテオ=リッチが北京でキリスト教の布教にあたるとともに、西洋の実用的な画角を伝えたのも万暦帝の時代であった。その陵墓は明の十三陵の一つ「定陵」で現在公開されているが、そこには民衆生活の困難をよそに、皇帝の許に莫大な富が集中したことを見て取ることができる。

Episode 神宗万暦帝の定陵

 明の国運が急速に傾きつつあった1620年7月、神宗は58歳で病没した。遺体は、生前に6年の歳月と800万両の大金を投じて造営された陵墓「定陵」に葬られた。「定陵」のある北京北方の40キロの天寿山のふもとには成祖の長陵を初めとする、いわゆる「明の十三陵」が存在する。1956年から中華人民共和国政府の手によって「定陵」の発掘が行われ、地下20m、前・中・後の三室、全長88m、高さ7mに及ぶ地下宮殿が現れ、多数の豪華な副葬品がみつかった。現在は人民を収奪した専制君主の贅沢のあかしとして、公開されている。
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