アルタン=ハン
16世紀にたびたび明に侵攻したモンゴルの王。北虜南倭の北虜はこの侵攻による脅威を言う。アルタン=ハンはチベット仏教に改宗し、ソナム=ギャムツォに初代ダライ=ラマの称号を与えた。
16世紀、しばしば明を脅かしたモンゴルの王。生没1507年ごろ~82年。特にモンゴルにチベット仏教を導入したことは重要。モンゴル高原(内モンゴル)には15世紀の後半、ダヤンが現れ、モンゴル民族をほぼ統一し、再び明の領土を脅かし始めた。チンギス=ハンの直系と称するダヤンの孫で、「右翼」のトメト部を率いていたのがアルタンで、1520年代から侵攻を開始し、特に1542年には山西に侵攻、1ヶ月にわたり略奪にあけくれ、20余万人を殺したという。また、アルタンは、西方では、モンゴルの一部であるオイラト部を討ち、チベット・青海を服属させた。
しかし、アルタン=ハンの侵攻の目的は、明に朝貢貿易を再開させることにあり、かつてのモンゴル帝国のような中国本土の領土化の意図はなかった。貿易再開のために明朝政府に圧力をかけ、略奪を行って引き上げるのが通例だった。しかし、明側には打つ手はなく、略奪放火に委せるほかはなかった。
北虜南倭の「北虜」
また1550年には北京城を8日ににわたって包囲した(明では「庚戌の変」といっている)。このモンゴルの脅威は、明にとって深刻で、「北虜南倭」の北虜とはこのアルタンの侵攻を意味した。しかし、アルタン=ハンの侵攻の目的は、明に朝貢貿易を再開させることにあり、かつてのモンゴル帝国のような中国本土の領土化の意図はなかった。貿易再開のために明朝政府に圧力をかけ、略奪を行って引き上げるのが通例だった。しかし、明側には打つ手はなく、略奪放火に委せるほかはなかった。
「北虜」に悩む「北辺の事情」
16世紀の中ごろ、アルタン=ハンのもとでモンゴル人が再び勢力を盛り返し、たびたび華北に侵入するようになった背景には、明側の北辺の事情もあった。『明実録』嘉靖2年(1524)の記事には「近年、辺境の姦民で虜(モンゴル)中に逃げ入ってモンゴル側のスパイとなるものが多い」として、その理由は、軍事物資の徴発も苛酷で、そのうえ無能な官吏が搾取するため生活が苦しくなっていることを挙げている。これらの漢人はアルタン=ハンの保護を求めて移住し、モンゴルで土地を開墾して漢人居住区を形成している。彼らは板升(ばんしょう)と呼ばれる大小の城郭都市をつくって住んだ。その一つが現在の内モンゴル自治区のフフホトである。モンゴル側に付いたものの中には北辺防備のための軍人もいた。また内地で迫害された白蓮教徒でモンゴルに逃れる者もいた。「明の辺境防備軍の内幕を熟知する軍人が手引きするからには、アルタン軍が毎年のようにやすやすと長城線を突破できたのも無理ではない。」<岸本美緒『明清と李朝の時代』世界の歴史12 1995 中央公論社 p.153-154>和議の成立と交易
1567年から内閣大学士として明の再建のための財政再建に取り組んだ張居正は、アルタン=ハンを懐柔すことに努め、1571年にようやく和議を結ぶことに成功した。馬市を開いて交易を認めるとともにアルタンを順義王に冊封し、その居城であるフフホトに「帰化城」の名を与えた。和議が成立したことによって大同その他の馬市を中国との交易の場として、モンゴル側からは金・銀・馬・牛・羊など、中国側から絹布・米・麦・鉄鍋などを交易し、この馬市はその後も長く漢民族とモンゴル人の交易の場となった。チベット仏教に改宗
チベット・青海はチベット仏教が盛んで、1578年、チベット仏教の黄帽派の指導者、ソナム=ギャムツォはモンゴリアに赴いてアルタン=ハンを改宗させた。アルタン=ハンはフビライの、ソナム=ギャムツォはパスパの生まれ変わりだという言われるようになり、モンゴルでのチベット仏教信仰が復活した。アルタン=ハンは彼にダライ=ラマの称号を与えた。チベット仏教のダライ=ラマ制度はここから始まる。