鄭芝竜
明末の海賊で平戸を拠点に台湾に進出した。明復興に加わり復明運動を行ったが捕らえられ、1661年に処刑された。鄭成功の父。
鄭芝竜は一官、または老一官とも呼ばれる。福建省泉州の出身で、若いときにマカオに出て、長じて父が寄居していた日本の平戸に移り、その地の田川氏の娘を娶って子供をもうけた。それが幼名福松、後の国姓爺・鄭成功である。鄭芝竜は海賊仲間に加わり、華南沿岸ならびに台湾海峡一帯に出没し、泉州、マカオ、マニラ、平戸、台湾沿岸を拠点に、東シナ海を舞台にした海賊(武装貿易集団ということもできる)の頭領となった。これに対して明朝は、1628年に鄭芝竜に官職を与えて帰順させ(これを招撫するという)、一転して官船を率いて海上防御に任に当たることとなった。その狙いは台湾に進出しているオランダ勢力に対抗させることであった。鄭芝竜は同年、福建省民数万を台湾に招き、一人あたり銀三両、三人に農耕牛1頭を与えて開拓に従事させるなど、大きな功績をあげて都督の官位に昇りつめた。
その後も鄭芝竜・鄭成功親子は厦門(アモイ)を中心に東シナ海一帯で大きな勢力を持ち、1644年に明が滅亡すると、その残存勢力の中心となって、福建に明王朝を再建(隆武帝)したが、次第に清軍に圧迫されていった。清朝側が、高官への登用を条件に鄭親子に帰順を呼びかけると、鄭芝竜は鄭成功の反対を押し切って北京に赴き、清朝と交渉しようとした。しかし清朝は鄭芝竜を捕らえ軟禁し、61年4月、斬首刑に処した。<戴國煇『台湾-人間・歴史・心性-』1988 岩波新書/伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書>
その後も鄭芝竜・鄭成功親子は厦門(アモイ)を中心に東シナ海一帯で大きな勢力を持ち、1644年に明が滅亡すると、その残存勢力の中心となって、福建に明王朝を再建(隆武帝)したが、次第に清軍に圧迫されていった。清朝側が、高官への登用を条件に鄭親子に帰順を呼びかけると、鄭芝竜は鄭成功の反対を押し切って北京に赴き、清朝と交渉しようとした。しかし清朝は鄭芝竜を捕らえ軟禁し、61年4月、斬首刑に処した。<戴國煇『台湾-人間・歴史・心性-』1988 岩波新書/伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書>