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盛世滋生人丁

康煕帝の時に出された、1711年以降に生まれた人には人頭税を課税しない減税策。地丁銀施行の前提となった。

 1711年朝は、皇帝康煕帝の即位50年を記念して、前年の壮丁男子の人口(2462万)を定数とし、それ以後の増加人丁は丁銀(人頭税)を課税しないという盛世慈生人丁とし、1715年以降実施した。
 盛世慈生とは、康煕帝が即位して50年、世の中が安定し、盛んになったこと喜び、民衆の生活を慈(いつく)しむという意味であり、そのために大減税を、新たな人頭税は徴収しないというかたちで約束したのだった。これは将来的には人頭税(丁銀。人を対象とした税で役とか賦といわれた)は消滅し、土地税(地銀。土地を対象とする税)に組み込まれて納税されることを意味している。事実、次の雍正帝時代には、丁銀と地銀を一本化した、地丁銀制が全中国で実施されることになる。

「盛世滋生人丁」による人口急増

 康煕帝がこの1711年の丁数をもって人頭税の定額とし、以後、いかに人口が増加しても、それには一切課税しないという「盛世滋生の人丁」を定めると、現金なもので、この年の2460万という丁数は、60年後には2億500万、100年後には3億を超えるといった具合に、登録人口は急増した。自然増加もあろうが、課税対象でなくなったため、隠す必要がなくなったからでもある。ちなみに、18世紀、ヨーロッパ最大のフランスですら、人口は2300万にすぎなかった。<寺田隆信『物語中国の史』1997 中公新書 p.261>
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寺田隆信
『物語中国の史』
1997 中公新書