雍正帝
中国の清の第5代皇帝。康煕帝に続き領土を拡張し、清朝の全盛を現出した。内政では軍機処を設置し、キリスト教布教禁止に踏み切った。
雍正帝
内政では康煕帝に始まる地丁銀制を全国に広め、また奴隷身分をなくして課税対象とした。また雲南の苗族(ミャオ族)など辺境の少数民族の同化策(「改土帰流」)をすすめ、北京語を公用語として全国に広めるなど、中央集権化をはかった。一方で清朝の支配を批判する言説には厳しく弾圧し、文字の獄が展開された。1729年、皇帝の政治を補助する諮問機関として軍機処をおいたのも雍正帝の時である。
外交ではロシアとの間で、1727年にロシア・モンゴル間の国境を定めるキャフタ条約を締結した。また典礼問題から始まったキリスト教布教に関する問題は、1723年にキリスト教布教を禁止(宣教師をマカオに追放)することで決着をつけた。
Episode 雍正帝から始まった太子密建の法
中国の統治者としてはすべて順調であった康煕帝であったが、後継者については死ぬまで苦悩していた。男子35名をもうけ、第2子を皇太子としていたが、非行が多く、二度も廃さなければならなかった。皇太子を指名しないまま臨終を迎えた康煕帝は、側近の臣下の手をとり、その手のひらに四と書いた。それは第四子を皇太子とすることであろうとされ、それで皇帝となったのが雍正帝であった。実は十四と書いてあったのを、侍臣が指を曲げて隠したとか、なめて消してしまったとかの噂も流れ、雍正帝の陰謀説も流れた。雍正帝は弟で有力なものを捕らえ、アキナ(犬)とかサスヘ(豚)と改名して幽閉し冷酷に排除した。雍正帝は宮廷の廷臣が皇太子に誰がなるかで暗闘することを防ぐため、皇太子をおかず、後継者の名は錦の箱に入れて宮殿(乾清宮)の正面の額の裏におき、皇帝の死後に開くという「太子密建の法」をとった。これによって清朝では後継者をめぐる宮廷内の争いが起きず(同時代のインドのムガル帝国などに比べ)安定したと評価されている。<宮崎市定『雍正帝』中公文庫 、増井経夫『大清帝国』講談社学術文庫 p.111>