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公行/コホン

清代の広州で貿易が許された特許商人。アヘン戦争後の南京条約で廃止された。

 代に唯一の貿易港なった広州(広東)で、特許を得て貿易にあたった商人を公行(こうこう、コホン)という。イギリスの東ンド会社は、これを、Co hong と呼んだが、Co はCooperation の Co で、hong は hong-merchant すなわち行商のことをさす、と言われる。十三行も通称として使われた。公行の代表的な家としては、潘氏や伍氏がある。彼らはいずれも巨万の富を築き、商業資本家となった。<増井経夫『大清帝国』講談社学術文庫 p.170>

自由貿易の圧力

 広州において、外国商人(夷商)と取引が出来たのは、大蔵省に相当する「戸部」の免許を受けた特許商人である「行商」だけであった。この行商が組織する一種のギルドが「公行」であり、およそ十人のメンバーからなっていた。このように、公行は貿易の利益を清朝が特権商人を通じて独占しようとする体制であったので、外国商人はイギリスの東インド会社を筆頭に、公行貿易ではなく、公行以外の商人と自由に取引ができるような自由貿易を望むようになった。イギリスは、1793年のマカートニー使節団の派遣以来、数度にわたって使節を派遣して広州以外の開港、公行の廃止を盛り込んだ通商条約の締結を求めたが、清朝は朝貢貿易の原則を崩さず、交渉にさえ入れなかった。1816年にはアマーストを派遣したが、清朝の要求する三跪九叩頭を拒否したため交渉に入れず、1834年にはネイピアを派遣して初めて武力に訴えて威嚇して以来、イギリスは次第に武力によって清朝に要求をのませることに転じていった。

公行の廃止

 1840年のアヘン戦争の結果として、1842年の南京条約を清朝と結んだイギリスは、その一項で公行の廃止を承認させ、目的を達成した。これによって清朝は特許商人のみに貿易を管理させる方式を廃止し、イギリス商人が直接中国商人と取引することを認める自由貿易体制に転換させられた。

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