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コジモ=デ=メディチ

15世紀、ルネサンス時代、フィレンツェのメディチ家の当主。その財力でルネサンスの芸術や学問を保護した。

 Cosimo de' Medici 1389~1464 コジモの父、ジョバンニ=デ=メディチは、フィレンツェにおけるメディチ家の政治的基盤を作った人であった。ジョバンニはメディチ銀行を設立して大成功し、自ら莫大な財力を蓄えたが、「正義の旗手」に選ばれると、資本家から7%の資本税をとることを決め、下層市民から大きな支持を受けた。

フィレンツェの実権を握る

 1428年、そのが後を継いだ子のコジモは、新興のメディチ家に反発した旧勢力によって一時フィレンツェを追われたが、市民はコジモの復帰を望み、わずか1年後の1434年に帰国し、以後は市民の支持を受けて揺るぎない権力を持つに至った。彼は重要な役職には就かなかくとも絶大な民衆の支持を背景に隠然たる力を発揮し、「イル=ヴェッキオ」(古老の意味)と呼ばれ、大きな富を文芸、芸術の保護にあてて、ルネサンスの代表的な保護者(パトロネージ)となった。生活は質素で、私生活もきちんとしていた。

ルネサンスの保護

 彼の保護を受けた芸術家は、彫刻家のドナテルロギベルティ、画家のフラ=アンジェリコ、哲学者のピコ=デラ=ミランドラ、フィチーノなど枚挙にいとまがない。
 またそのころ、ヨーロッパの東方、ビザンツ帝国ではオスマン帝国の脅威にさらされていた。それは東西に分裂していたキリスト教教会の統合を促すこととなり、1439年にフィレンツェで宗教会議が開催された。それを実現させたのがコジモ=デ=メディチであった。このときビザンツ教会側から参加した学者は、さかんにプラトンとアリストテレスを引用して議論を進めたので、フィレンツェ人が初めてギリシア思想に触れることになった。
 さらに1453年、コンスタンティノープルは占領されビザンツ帝国が滅亡した。難を避けたギリシア人学者の多くがフィレンツェに亡命し、コジモの保護を受けることとなった。こうしてフィレンツェはギリシア文化研究の中心地となり、ルネッサンスの思想的基盤となった。
 コジモは、1459年、ギリシア語の文献の収集して研究をすすめるため、そのラテン語訳をフィチーノに命じ、プラトン思想の研究機関として「プラトン=アカデミー」を創設した。これらは孫のロレンツォにも引き継がれ、ルネサンスの思想のまさに中心となっていく。1464年没。死後も「祖国の父」と称えられた。
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