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プラトン=アカデミー

15世紀、フィレンツェのメディチ家が設けた研究所。ギリシア思想の研究、復興を進めルネサンスの一つの拠点となった。

 1459年フィレンツェコジモ=デ=メディチは、別荘の建物を改装して、「プラトン=アカデミー」とし、若い哲学者フィチーノに命じて古代ギリシアのプラトンの著作のラテン語訳に従事させた。古代ギリシアのアテネにプラトンが作ったアカデメイアの再興をめざし、フィレンツェの学者が集まり、プラトンの著作などのギリシア哲学について盛んに議論し、研究が進められた。コシモの孫のロレンツォもその議論に加わっており、メディチ家の当主となってからも続けた。プラトン=アカデミーにはピコ=デラ=ミランドラら、当代のすぐれた学者、思想家が集まり、ルネサンスのユマニスムス(ヒューマニズム)の拠点となった。

メディチ家による保護

 フィレンツェにギリシア思想が知られたのは、1439年、コジモが招聘してフィレンツェで東西教会合同のための宗教会議が開催されたとき、ビザンツ帝国から皇帝自身と、ベッサリオンやゲミストゥスなどのギリシア人の学者がフィレンツェにやってきて、プラトンやアリストテレスを引用しながら盛んに議論をしたときからである。
 フィレンツェの知識人はこの時初めてプラトンのイデア論とアリストテレスの形相の概念を知り、キリスト教信仰にとってどちらが真理か、という哲学論争を経験した。フィレンツェ人はプラトンの思想をより支持したため、プラトン学者であったゲミストゥスは感激し、コジモにプラトン=アカデミーの設立を働きかけたという。この宗教会議は、迫りくるオスマン帝国に対抗するためのものであったが、目的の東西教会の合同は決議されたもののの結局は実現できなかった。さらに1453年にビザンツ帝国は滅亡を迎えた。このとき、コンスタティノープルを逃れたギリシア人学者の多くが、フィレンツェに亡命し、コジモの保護を受けることになったのだった。
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