ルネサンス
14~16世紀、イタリアから始まり西ヨーロッパで展開された文化、芸術の運動。同時期の大航海時代、宗教改革の動きと共に、ヨーロッパの中世から近代への移行期(近世)の出発点となった。
14世紀のイタリアに始まり、15世紀に最も盛んとなって、16世紀まで続いた、ヨーロッパの文化、芸術上の動き。15世紀末に本格化する大航海時代、16世紀の宗教改革、さらにイタリア戦争から顕著になる主権国家の形成などと密接に関係しながら、近代社会の成立を準備した動きと言える。
※ルネサンスという語は、もとはギリシア語からきた宗教用語で「死者の再生」という意味の「パランジェネジー」と言う言葉を、フランス語式に言い直したもので、フランスでは「新しいものとして生まれ変わる」という意味で使われていた。それを歴史的な概念として用いたのは19世紀中頃の歴史家ジュール=ミシュレに始まる。この項では語源をラテン語としていたが、ラテン語を直接語源としているのではないので訂正した。
ミシュレ ルネサンスという言葉を初めて歴史概念として用いたのは1855年に『フランス史』の第7巻を『ルネサンス』と言うタイトルで書いたフランスの歴史家ミシュレであった。ミシュレは、フランス革命の理念である自由、理性、民主主義をかかげ、政治的ならびに宗教的専制を拒絶して自由の精神と「人間」の尊厳を神聖視するという彼の生きた19世紀の思想の立場から、14~15世紀のイタリアではなく、16世紀のコロンブス、コペルニクス、ガリレオなどの地球と地動説の発見、ラブレー、モンテーニュ、シェイクスピアなどの著作による人間の発見を「その精神において、近代と揆を一にする時代」と評価した。
ブルクハルト 1860年に発表されたスイスの文化史学者ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』<上下 中公文庫>は従来のルネサンス観を代表する古典的な作品となっている。ブルクハルトは、ルネサンスの意義として、「個人の解放」、「ヒューマニズム」という理念を強調した。ミシュレ、ブルクハルトに代表されるルネサンス観は、時代区分や社会構造の変改を意識したものではなく、また無意識のうちにヨーロッパ文明の優越観に基づいたものであったが、日本でのルネサンス観にも大きな影響を与えた。
ホイジンガ 20世紀に入り、ルネサンス観に変化が現れた。1919年に発表されたオランダの歴史学者ホイジンガの『中世の秋』は、ブルクハルトの中世とルネサンスの対比に異議を唱え、ルネサンス(の美術)は「傾きつつある中世の萎んだ魂がもたらしたもの」にすぎないと論じた。しかし、1930年代のファシズムの台頭という危機が強まると、改めてルネサンスを生み出したフィレンツェの都市共和政を評価する研究が盛んになった。
「ルネサンス=近代」への懐疑 第二次世界大戦後は、正統的な権威に対する批判的論述が現れた。特にアドルノやミシェル=フーコーらが、ルネサンスを起源とする西欧的な個人主義や文明的な価値観が、ナチズムやスターリニズムを生み出してしまったという批判を深めたことに強く影響され、ルネサンスから啓蒙思想そして近代へと続く「大きな物語」に懐疑的な見解が強まった。「その結果、20世紀後半の思想家でルネサンスの文化的、哲学的成果を賞賛しようと考える人はほとんどいなくなった。それに代わって歴史学者たちは、それぞれの地方に根ざした固有の事物の分析に向かうようになるのである。」<ジェリー・ブロトン/高山芳樹訳『はじめてわかるルネサンス』2013 ちくま学芸文庫 p.43>
「ルネサンス」観の多様化 こうして現在では、中世=暗黒時代、ルネサンス=明るい近代への序曲、といった単純な見方は影を潜め、中世の段階での文化の豊かさ(カロリング=ルネサンスや12世紀ルネサンス)が強調されるようになり、一方ではルネサンス以降の社会でも例えば魔女裁判が続いたことなどのように暗黒面が残っていたことが言われている。見方はだいぶ変わってきているが、ルネサンスが絵画、建築などの美術や文学の面で新しい内容とスタイルを生み出したものであり、思想の面でもより人間性に光が当てられるようになったことは確かであり、その際の手本となったのがイスラーム文化を通じて伝えられた、キリスト教以前のギリシア・ローマの古典古代の文化がであったことも事実であり、その価値は変わることはない。
羽仁五郎の『ミケルアンヂェロ』 日本において、ルネサンスはヨーロッパ近代の始まりであると意義づけられていたころの典型的な文章に、1939年の羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』がある。
教科書・用語集に見るネサンス観の変化 1990年代までの山川出版社『詳説世界史』では、第Ⅱ部第9章「近代ヨーロッパの誕生」の冒頭、第1節に「ルネサンス」が置かれていた。しかし2000年代の『詳説世界史B』から、第9章「近代ヨーロッパの成立」の第1節は「ヨーロッパ世界の拡大」となり、ルネサンスは第2節に置かれるようになった。さらに、現行教科書では第8章に「近世ヨーロッパ世界の形成」が置かれ、その第1節がヨーロッパ世界の拡大、第2節がルネサンス、第3節が宗教改革、第4節が「・・主権国家体制の形成」とされ、第10章が「近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立」となった。つまり、今まで世界史ではあまり使われていなかった「近世」と言う時代区分が登場し、ルネサンスはその中に入れられ、「近代」からはずされたわけだ。 ルネサンスを「中世」に入れてしまっているのが東京書籍版の「世界史B」で、第10章ヨーロッパ中世世界の変容の最後の節をルネサンスに充て、「中世との断絶が強調されすぎてはならない」<2019年版p.164>と述べている。その結果、ルネサンスがモンゴル帝国の前に記述されるという妙なことになっている。
このように、かつての「ルネサンスは近代の始まり」という意義づけは、現在「一般的」とさえ言わなくなった。この変化は山川出版社『世界史用語集』での「ルネサンス」の説明にも現れており、1980~90年代のものには、「古代ギリシア・ローマの文化を参考としながら、神中心の中世的なあり方から自我を主張する近代的な生き方への転換が、文学・芸術・思想の諸文化活動の上で行われたもので、一般に“近代”の出発点とされる。」というものであった。ところが、2000年代の新課程「世界史B用語集」からは、「・・・一般に“近代”の出発とされるが、その貴族的・保守的な性格も無視できない」という文に変わり、2010年版ではさらに「・・・一般に“近代”の出発とされるが、貴族的・保守的な側面のあることも指摘されている」となった。
「近世の始まり」が定着か そして現行の山川用語集(2014年以降)では「中世の文化から近世への転換点といえるが、神学的要素や不合理な要素も残していた。」となっている。今や、「近代の始まり」という位置づけはまったくみられなくなり、「近代」そのものが18世紀後半(つまり産業革命・市民革命)からという枠組みが出来上がり、15世紀後半~18世紀前半は「近世」という時代区分が定着したとみられる。
さて、山川の現行教科書の「近世」という時代区分や、用語集の歯切れの悪い説明は正しいのだろうか。前掲のブロトンの『はじめてわかるルネサンス』では、最近はルネサンスを『近代前期』とする説が出されているという。その方が妥当性があるような気がする。とりあえず、このページでは「ヨーロッパの中世から近代への移行期(近世)の出発点となった」と修正しました。皆さんもルネサンスは「中世」「近世」「近代」のどこに入るのか、こだわって考えてみて下さい。
たしかにイタリア=ルネサンスは16世紀前半には徐々に光を失い、直ちに近代社会を生み出すことにはならなかったが、その延長線上にある17世紀にはアルプス以北のルネサンスが新しい展開を示し、18世紀の産業革命とフランス革命という「近代の成立」に直結している。ルネサンスの「貴族的・保守的な側面」を強調するよりは、ルネサンスの革新性を評価すべきではないだろうか。その上で、第二次世界大戦後に強まったルネサンス以降の近代の否定的再検討をさらに進めながら、それを全否定するのではなく、その中から豊かで平和な未来につながる鉱脈を改めて探り当てるべきであろう。
14世紀 イタリア=ルネサンスの始まり 14世紀はじめ、イタリアでは、十字軍運動の影響として始まった東方貿易の拠点として、北イタリアにヴェネツィア・ジェノヴァなどの海港に都市共和国(コムーネ)の繁栄が出現し、さらに内陸のフィレンツェが毛織物業と商業で繁栄するようになった。このような商業ルネサンスとも言われる商業の復活による、北イタリアの商業都市の発展を背景に、都市の市民文化が成長し、ダンテ(1265~1321、1321年に『神曲』完成)、ペトラルカ(1304~1374)、ボッカチォ(1313~1375、)らが現れ、まず文芸でルネサンスが始まった。絵画ではジョットが先駆となった。一方で前代からの教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)の抗争が続き、教皇のバビロン捕囚や教会大分裂など、カトリック教会の教皇権の衰退が明らかになってきた。1339年には英仏の百年戦争が始まり、その間にイギリスのワット=タイラーの乱やフランスのジャックリーの乱などの農民叛乱が起こった。これらは黒死病の流行とともに、封建社会の矛盾を進行させた。ドイツでは1356年に金印勅書が出され、神聖ローマ帝国の皇帝選出ルールが定まった。
15世紀 フィレンツェの繁栄 15世紀、つまり1400年代(クワトロチェント)は、イタリアの自治都市フィレンツェ共和国は経済の発展を背景として成長した市民層が文化の担い手と鳴り、ルネサンスが最も華やかに展開された時期であった。建築家ブルネレスキはフィレンツェにサンタ=マリア大聖堂を建設し、彫刻ではギベルティやドナテルロが、絵画ではジョットとマサッチョが活躍した。特に画家ボッティチェリは『春』や『ヴィーナスの誕生』などで人間性を美しく描いて、ルネサンス美術を開花させた。フィレンツェの市政は有力市民のメディチ家が有力となり、芸術や学問の保護者としてふるまうようになっていった。
また、1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅亡した際、ギリシア人の学者が多数、フィレンツェに移り、ギリシアの古典文化をもたらしたことも重要である。この同じ年に百年戦争が終結、イギリスでは引き続いてバラ戦争に突入、長期にわたる戦争で英仏とも封建領主の没落が進み、反面、王権の強化が始まった。
北方ルネサンス 一方、絵画では15世紀初めにフランドル派といわれる画壇が形成されている。中でもファン=アイク兄弟はイタリア絵画に先立って油絵技法を改良し、ヨーロッパでの普及の先進地域となっていた。この動きは北方ルネサンスとも言われる。その背景はフランドル地方が毛織物業と貿易の先進地域であり市民階級が台頭していたことがあげられる。
15世紀末~16世紀初め イタリア=ルネサンスの全盛期 このような時代背景があって、15世紀後半からから16世紀にかけてがイタリア=ルネサンスの全盛期となり、ダ=ヴィンチ(1452~1519)、ミケランジェロ(1475~1564)、ラファエロ(1483~1520)の三大画家が活躍し、政治思想家マキァヴェリ(1469~1527)が登場した。しかし、この時期のフィレンツェはメディチ家政権が倒され、サヴォナローラの改革が行われたものの、間もなくメディチ家が復活して専制政治を行うようになった。また、1494年にはフィレンツェの混乱に乗じてフランス王がイタリアに侵攻してイタリア戦争がはじまるなど、イタリア全土が混乱した時代であった。フィレンツェ以外でもミラノ公国のスフォルツァ家やローマのユリウス2世などのローマ教皇も、ルネサンス芸術のパトロンとして存在した。また、イタリア以外でもエラスムス、トマス=モアなどの近代思想の先駆となる思想家が輩出した。
16世紀中頃 中心がローマに移る 16世紀中頃になるとイタリア=ルネサンスの中心はフィレンツェからローマに移り、ローマ教皇がその保護者となった。ブラマンテが最初の設計にあたり、ついでラファエロ、ミケランジェロがその設計や建設、壁画の制作などに加わったサン=ピエトロ大聖堂がルネサンス様式の代表的な建造物として完成したが、この修築費用を捻出するためにローマ教皇レオ10世はドイツでの贖宥状の発売に踏み切り、それに対して1517年にルターの宗教改革が開始される。
一方、レコンキスタを完了させたポルトガル、スペインはいち早く王権を強化し、ヨーロッパの東方でオスマン帝国が進出したという情勢に対応して、西方への新航路の開拓に向かい、大航海時代を出現させた。
イタリア=ルネサンスの終わり 宗教改革によって、ヨーロッパは深刻な宗教対立の時代に突入する。またイタリア戦争に見られるフランス王室とハプスブルク家の対立が軸となった国際関係がなおも続き、その間、主権国家の形成も進んでいった。特にイタリア戦争の戦火がローマにも及び、1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の派遣した軍隊によるローマの劫略によってローマが破壊されたことは、イタリア=ルネサンスの終わりが始まったこと象徴する出来事となった。美術史では、1520年のラファエロの死を以て、イタリア=ルネサンスの終わりとし、次の様式であるマニエリスムがはじまるとされることが一般的である。1530年にはフィレンツェの都市共和政が終わりを告げ、メディチ家の世襲権力が確定してトスカナ公国となったことも、ルネサンスの終焉の象徴的出来事であった。しかし、ミケランジェロはなおも創作を続け、フィレンツェを離れローマを活動の場として、晩年の大作『最後の審判』を制作しており、まだ光を失っていない。また全ヨーロッパで見ればルネサンスは16世紀前半で終わったと断定することはできない。
イタリア以北へのひろがり アルプス以北ではすでに15世紀からフランドル地方ではフランドル派による油絵技法の完成がみられ、16世紀にはブリューゲルが現れている。またイタリアではヴェネツィアが新たな中心地となり、さらにアルプス以北のフランス、オランダ、ドイツ、イギリスなどへのひろがりが顕著になっていく。宗教改革とからんでオランダのスペインからの独立戦争が始まり、オランダを支援したイギリスが1588年にスペインの無敵艦隊を破ったことに見られるように、スペインの急速な没落が始まった。それらの背景にあるのが、大航海時代以降に形成された新しい世界の経済システム(近代世界システム)あった。イギリスにシェークスピアが登場したのはこの時代であった。
次の17世紀のヨーロッパは、三十年戦争に代表される17世紀の危機といわれる時代であり、文化史的にはルネサンスから「科学革命」の時代へと転換する。そして、18世紀後半に産業革命の隆盛、市民革命を迎え、時代は近世から「近代」に移行していくと一般に捉えられている。
ルネサンスの意味
ルネサンス Renaissance とはフランス語※で「再生」を意味することばである。日本では「文芸復興」と訳すことも多かったが、それはこの文化運動がギリシア文化・ローマ文化のいわゆる「古典古代」の文化を「復興」させるという面があったからである。まとめると、ルネサンスとはギリシャ、ローマの古典文化を再生すること、ということができる。※ルネサンスという語は、もとはギリシア語からきた宗教用語で「死者の再生」という意味の「パランジェネジー」と言う言葉を、フランス語式に言い直したもので、フランスでは「新しいものとして生まれ変わる」という意味で使われていた。それを歴史的な概念として用いたのは19世紀中頃の歴史家ジュール=ミシュレに始まる。この項では語源をラテン語としていたが、ラテン語を直接語源としているのではないので訂正した。
ルネサンスの意義
ルネサンスの意義はさまざまな論議があるが、従来の一般的な見方は、ゲルマン民族という蛮族の侵入と、それによってもたらされた封建社会、そして神を絶対視し人間を罪深いものとするローマ教皇の思想が支配している中世を「暗黒の時代」と見て、その暗黒から人間を解放しようと言う運動がルネサンスである、というものであろう。そのような観点からすれば、ルネサンスの意義は、封建社会と神中心の世界観の束縛から、人間性の自由・解放を求め、ヒューマニズムと個性を尊重という近代社会の原理を生み出したこと、と言うことができる。ルネサンス観の変化
ルネサンスという歴史用語は、19世紀に生まれた、新しい概念である。現在では、一般的にも定着し、フィットネスクラブの名称とされたり、“ルネッサーンス!!”と叫ぶ芸人が現れたりしているが、その見方は大きく変化いている。以下、近刊のジェリー・ブロトン/高山芳樹訳『はじめてわかるルネサンス』(2013刊、ちくま学芸文庫)をもとに、その変遷を略述する。ミシュレ ルネサンスという言葉を初めて歴史概念として用いたのは1855年に『フランス史』の第7巻を『ルネサンス』と言うタイトルで書いたフランスの歴史家ミシュレであった。ミシュレは、フランス革命の理念である自由、理性、民主主義をかかげ、政治的ならびに宗教的専制を拒絶して自由の精神と「人間」の尊厳を神聖視するという彼の生きた19世紀の思想の立場から、14~15世紀のイタリアではなく、16世紀のコロンブス、コペルニクス、ガリレオなどの地球と地動説の発見、ラブレー、モンテーニュ、シェイクスピアなどの著作による人間の発見を「その精神において、近代と揆を一にする時代」と評価した。
ブルクハルト 1860年に発表されたスイスの文化史学者ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』<上下 中公文庫>は従来のルネサンス観を代表する古典的な作品となっている。ブルクハルトは、ルネサンスの意義として、「個人の解放」、「ヒューマニズム」という理念を強調した。ミシュレ、ブルクハルトに代表されるルネサンス観は、時代区分や社会構造の変改を意識したものではなく、また無意識のうちにヨーロッパ文明の優越観に基づいたものであったが、日本でのルネサンス観にも大きな影響を与えた。
ホイジンガ 20世紀に入り、ルネサンス観に変化が現れた。1919年に発表されたオランダの歴史学者ホイジンガの『中世の秋』は、ブルクハルトの中世とルネサンスの対比に異議を唱え、ルネサンス(の美術)は「傾きつつある中世の萎んだ魂がもたらしたもの」にすぎないと論じた。しかし、1930年代のファシズムの台頭という危機が強まると、改めてルネサンスを生み出したフィレンツェの都市共和政を評価する研究が盛んになった。
「ルネサンス=近代」への懐疑 第二次世界大戦後は、正統的な権威に対する批判的論述が現れた。特にアドルノやミシェル=フーコーらが、ルネサンスを起源とする西欧的な個人主義や文明的な価値観が、ナチズムやスターリニズムを生み出してしまったという批判を深めたことに強く影響され、ルネサンスから啓蒙思想そして近代へと続く「大きな物語」に懐疑的な見解が強まった。「その結果、20世紀後半の思想家でルネサンスの文化的、哲学的成果を賞賛しようと考える人はほとんどいなくなった。それに代わって歴史学者たちは、それぞれの地方に根ざした固有の事物の分析に向かうようになるのである。」<ジェリー・ブロトン/高山芳樹訳『はじめてわかるルネサンス』2013 ちくま学芸文庫 p.43>
「ルネサンス」観の多様化 こうして現在では、中世=暗黒時代、ルネサンス=明るい近代への序曲、といった単純な見方は影を潜め、中世の段階での文化の豊かさ(カロリング=ルネサンスや12世紀ルネサンス)が強調されるようになり、一方ではルネサンス以降の社会でも例えば魔女裁判が続いたことなどのように暗黒面が残っていたことが言われている。見方はだいぶ変わってきているが、ルネサンスが絵画、建築などの美術や文学の面で新しい内容とスタイルを生み出したものであり、思想の面でもより人間性に光が当てられるようになったことは確かであり、その際の手本となったのがイスラーム文化を通じて伝えられた、キリスト教以前のギリシア・ローマの古典古代の文化がであったことも事実であり、その価値は変わることはない。
羽仁五郎の『ミケルアンヂェロ』 日本において、ルネサンスはヨーロッパ近代の始まりであると意義づけられていたころの典型的な文章に、1939年の羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』がある。
(引用)全欧ルネサンスは、12世紀におけるイタリアの都市民衆制の自立およびトゥキニ(一揆)の動向、フランドルの自由都市の発達、イギリスにおける1215年マグナ・カルタの確認および1265年議会の創設およびそれらの発展、ドイツにおける1241年以来のハンザ同盟の発達、1302年フランス三部会議会の開設、1323~28年フラマン民衆の独立自由のたたかい、1358年フランスのジャックリ、1381年ギリスのワット・タイラアおよびジョン・ボオルなどの運動、15世紀後半カタロニアのジャックリなど、それから1525年ドイツ農民戦争、1581年オランダ共和国成立から1649年イギリス革命、これらに一貫して端的に表現された封建専制に対する国民民衆の自由独立の発達を、その基調とし、その本質として、ルネサンスというあるいは文芸復興または宗教改革という名称をもってその深い意義をのこりなくいいあらわしがたいあの全ルネサンスの真理、その美、その力をもって、世界の現在の歴史に動かすべからざる近代の礎石をおいたのであった。・・・一言でいうならば、ルネサンスの本質は封建専制に対する民衆の自由独立の実現の希望であった。<羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』1939 岩波新書 p.23>羽仁五郎はミケランジェロをフィレンツェの民衆共和政に忠実であり、共和政のために戦い、その代弁者であったことを徹底的に描くことによって、「民衆のルネサンス」のエネルギーを描いた。またそれが敗北していく過程を描いた。それはまさに1930年代の日本軍国主義の台頭に対する抵抗であり、現実の日本を描いたのだった。ルネサンスへの懐疑論と研究の個別化・多様化が進んだ現在、むしろ羽仁のような見方を改めて考えてみる必要があるのではないだろうか。
教科書・用語集に見るネサンス観の変化 1990年代までの山川出版社『詳説世界史』では、第Ⅱ部第9章「近代ヨーロッパの誕生」の冒頭、第1節に「ルネサンス」が置かれていた。しかし2000年代の『詳説世界史B』から、第9章「近代ヨーロッパの成立」の第1節は「ヨーロッパ世界の拡大」となり、ルネサンスは第2節に置かれるようになった。さらに、現行教科書では第8章に「近世ヨーロッパ世界の形成」が置かれ、その第1節がヨーロッパ世界の拡大、第2節がルネサンス、第3節が宗教改革、第4節が「・・主権国家体制の形成」とされ、第10章が「近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立」となった。つまり、今まで世界史ではあまり使われていなかった「近世」と言う時代区分が登場し、ルネサンスはその中に入れられ、「近代」からはずされたわけだ。 ルネサンスを「中世」に入れてしまっているのが東京書籍版の「世界史B」で、第10章ヨーロッパ中世世界の変容の最後の節をルネサンスに充て、「中世との断絶が強調されすぎてはならない」<2019年版p.164>と述べている。その結果、ルネサンスがモンゴル帝国の前に記述されるという妙なことになっている。
このように、かつての「ルネサンスは近代の始まり」という意義づけは、現在「一般的」とさえ言わなくなった。この変化は山川出版社『世界史用語集』での「ルネサンス」の説明にも現れており、1980~90年代のものには、「古代ギリシア・ローマの文化を参考としながら、神中心の中世的なあり方から自我を主張する近代的な生き方への転換が、文学・芸術・思想の諸文化活動の上で行われたもので、一般に“近代”の出発点とされる。」というものであった。ところが、2000年代の新課程「世界史B用語集」からは、「・・・一般に“近代”の出発とされるが、その貴族的・保守的な性格も無視できない」という文に変わり、2010年版ではさらに「・・・一般に“近代”の出発とされるが、貴族的・保守的な側面のあることも指摘されている」となった。
「近世の始まり」が定着か そして現行の山川用語集(2014年以降)では「中世の文化から近世への転換点といえるが、神学的要素や不合理な要素も残していた。」となっている。今や、「近代の始まり」という位置づけはまったくみられなくなり、「近代」そのものが18世紀後半(つまり産業革命・市民革命)からという枠組みが出来上がり、15世紀後半~18世紀前半は「近世」という時代区分が定着したとみられる。
さて、山川の現行教科書の「近世」という時代区分や、用語集の歯切れの悪い説明は正しいのだろうか。前掲のブロトンの『はじめてわかるルネサンス』では、最近はルネサンスを『近代前期』とする説が出されているという。その方が妥当性があるような気がする。とりあえず、このページでは「ヨーロッパの中世から近代への移行期(近世)の出発点となった」と修正しました。皆さんもルネサンスは「中世」「近世」「近代」のどこに入るのか、こだわって考えてみて下さい。
ルネサンスの限界と影響
このようにルネサンスを「近代の始まり」とする見方は現在では後退し、「ルネサンスの限界」が指摘されている。たしかにルネサンスは、文化、芸術、思想上の運動であり、キリスト教支配そのものや封建社会そのもへの批判や破壊を目指すものではなかった。その点では単純に「ルネサンスが近代をもたらした」とは言い切れないが、「ルネサンス」を一面的に捉えるのではなく、その影響は宗教や政治、社会運動にも大きな影響を及ぼしたことに注目し、宗教面での宗教改革、政治面でのイギリス革命、各地の農民戦争などとの関連でとらえれば、羽仁五郎の言う「文芸復興または宗教改革という名称をもってその深い意義をのこりなくいいあらわしがたいあの全ルネサンスの真理、その美、その力をもって、世界の現在の歴史に動かすべからざる近代の礎石をおいた」という評価は依然として生きていると思われる。たしかにイタリア=ルネサンスは16世紀前半には徐々に光を失い、直ちに近代社会を生み出すことにはならなかったが、その延長線上にある17世紀にはアルプス以北のルネサンスが新しい展開を示し、18世紀の産業革命とフランス革命という「近代の成立」に直結している。ルネサンスの「貴族的・保守的な側面」を強調するよりは、ルネサンスの革新性を評価すべきではないだろうか。その上で、第二次世界大戦後に強まったルネサンス以降の近代の否定的再検討をさらに進めながら、それを全否定するのではなく、その中から豊かで平和な未来につながる鉱脈を改めて探り当てるべきであろう。
ルネサンスの経過とその時代
ルネサンスの先駆的な動き 一般的にルネサンスは14世紀のイタリアに始まるとされているが、長い中世の間に、その先駆的な動きがあったことが注目されている。まず、8~9世紀にフランク王国のカール大帝は、宮廷でのラテン文化の保護に務め、カロリング=ルネサンスといわれている。次いで十字軍時代のイベリア半島や南イタリアでのイスラーム文化との接触の中から生まれた12世紀ルネサンスも、14世紀以降のルネサンスの前提となる重要な動きであった。しかしこれらの「中世のルネサンス」といわれる動きは、いずれも国王の宮廷や、一部の知識人の間に起こったことで、民衆的な広がりはなかった。14世紀 イタリア=ルネサンスの始まり 14世紀はじめ、イタリアでは、十字軍運動の影響として始まった東方貿易の拠点として、北イタリアにヴェネツィア・ジェノヴァなどの海港に都市共和国(コムーネ)の繁栄が出現し、さらに内陸のフィレンツェが毛織物業と商業で繁栄するようになった。このような商業ルネサンスとも言われる商業の復活による、北イタリアの商業都市の発展を背景に、都市の市民文化が成長し、ダンテ(1265~1321、1321年に『神曲』完成)、ペトラルカ(1304~1374)、ボッカチォ(1313~1375、)らが現れ、まず文芸でルネサンスが始まった。絵画ではジョットが先駆となった。一方で前代からの教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)の抗争が続き、教皇のバビロン捕囚や教会大分裂など、カトリック教会の教皇権の衰退が明らかになってきた。1339年には英仏の百年戦争が始まり、その間にイギリスのワット=タイラーの乱やフランスのジャックリーの乱などの農民叛乱が起こった。これらは黒死病の流行とともに、封建社会の矛盾を進行させた。ドイツでは1356年に金印勅書が出され、神聖ローマ帝国の皇帝選出ルールが定まった。
15世紀 フィレンツェの繁栄 15世紀、つまり1400年代(クワトロチェント)は、イタリアの自治都市フィレンツェ共和国は経済の発展を背景として成長した市民層が文化の担い手と鳴り、ルネサンスが最も華やかに展開された時期であった。建築家ブルネレスキはフィレンツェにサンタ=マリア大聖堂を建設し、彫刻ではギベルティやドナテルロが、絵画ではジョットとマサッチョが活躍した。特に画家ボッティチェリは『春』や『ヴィーナスの誕生』などで人間性を美しく描いて、ルネサンス美術を開花させた。フィレンツェの市政は有力市民のメディチ家が有力となり、芸術や学問の保護者としてふるまうようになっていった。
また、1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅亡した際、ギリシア人の学者が多数、フィレンツェに移り、ギリシアの古典文化をもたらしたことも重要である。この同じ年に百年戦争が終結、イギリスでは引き続いてバラ戦争に突入、長期にわたる戦争で英仏とも封建領主の没落が進み、反面、王権の強化が始まった。
北方ルネサンス 一方、絵画では15世紀初めにフランドル派といわれる画壇が形成されている。中でもファン=アイク兄弟はイタリア絵画に先立って油絵技法を改良し、ヨーロッパでの普及の先進地域となっていた。この動きは北方ルネサンスとも言われる。その背景はフランドル地方が毛織物業と貿易の先進地域であり市民階級が台頭していたことがあげられる。
15世紀末~16世紀初め イタリア=ルネサンスの全盛期 このような時代背景があって、15世紀後半からから16世紀にかけてがイタリア=ルネサンスの全盛期となり、ダ=ヴィンチ(1452~1519)、ミケランジェロ(1475~1564)、ラファエロ(1483~1520)の三大画家が活躍し、政治思想家マキァヴェリ(1469~1527)が登場した。しかし、この時期のフィレンツェはメディチ家政権が倒され、サヴォナローラの改革が行われたものの、間もなくメディチ家が復活して専制政治を行うようになった。また、1494年にはフィレンツェの混乱に乗じてフランス王がイタリアに侵攻してイタリア戦争がはじまるなど、イタリア全土が混乱した時代であった。フィレンツェ以外でもミラノ公国のスフォルツァ家やローマのユリウス2世などのローマ教皇も、ルネサンス芸術のパトロンとして存在した。また、イタリア以外でもエラスムス、トマス=モアなどの近代思想の先駆となる思想家が輩出した。
16世紀中頃 中心がローマに移る 16世紀中頃になるとイタリア=ルネサンスの中心はフィレンツェからローマに移り、ローマ教皇がその保護者となった。ブラマンテが最初の設計にあたり、ついでラファエロ、ミケランジェロがその設計や建設、壁画の制作などに加わったサン=ピエトロ大聖堂がルネサンス様式の代表的な建造物として完成したが、この修築費用を捻出するためにローマ教皇レオ10世はドイツでの贖宥状の発売に踏み切り、それに対して1517年にルターの宗教改革が開始される。
一方、レコンキスタを完了させたポルトガル、スペインはいち早く王権を強化し、ヨーロッパの東方でオスマン帝国が進出したという情勢に対応して、西方への新航路の開拓に向かい、大航海時代を出現させた。
イタリア=ルネサンスの終わり 宗教改革によって、ヨーロッパは深刻な宗教対立の時代に突入する。またイタリア戦争に見られるフランス王室とハプスブルク家の対立が軸となった国際関係がなおも続き、その間、主権国家の形成も進んでいった。特にイタリア戦争の戦火がローマにも及び、1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の派遣した軍隊によるローマの劫略によってローマが破壊されたことは、イタリア=ルネサンスの終わりが始まったこと象徴する出来事となった。美術史では、1520年のラファエロの死を以て、イタリア=ルネサンスの終わりとし、次の様式であるマニエリスムがはじまるとされることが一般的である。1530年にはフィレンツェの都市共和政が終わりを告げ、メディチ家の世襲権力が確定してトスカナ公国となったことも、ルネサンスの終焉の象徴的出来事であった。しかし、ミケランジェロはなおも創作を続け、フィレンツェを離れローマを活動の場として、晩年の大作『最後の審判』を制作しており、まだ光を失っていない。また全ヨーロッパで見ればルネサンスは16世紀前半で終わったと断定することはできない。
イタリア以北へのひろがり アルプス以北ではすでに15世紀からフランドル地方ではフランドル派による油絵技法の完成がみられ、16世紀にはブリューゲルが現れている。またイタリアではヴェネツィアが新たな中心地となり、さらにアルプス以北のフランス、オランダ、ドイツ、イギリスなどへのひろがりが顕著になっていく。宗教改革とからんでオランダのスペインからの独立戦争が始まり、オランダを支援したイギリスが1588年にスペインの無敵艦隊を破ったことに見られるように、スペインの急速な没落が始まった。それらの背景にあるのが、大航海時代以降に形成された新しい世界の経済システム(近代世界システム)あった。イギリスにシェークスピアが登場したのはこの時代であった。
次の17世紀のヨーロッパは、三十年戦争に代表される17世紀の危機といわれる時代であり、文化史的にはルネサンスから「科学革命」の時代へと転換する。そして、18世紀後半に産業革命の隆盛、市民革命を迎え、時代は近世から「近代」に移行していくと一般に捉えられている。