イェルマーク
16世紀末、モスクワ大公国イヴァン4世の時、コサックの隊長として遠征隊を組織、シベリアに進出してシビル=ハン国を征服した。
コサックの隊長。モスクワ大公国のイヴァン4世の時、1581年に遠征隊を組織し、シベリア遠征を開始、ウラル山脈を越えてオビ川流域などの狩猟民を降服させ、さらにシビル・ハン国を征服して、イヴァン4世に献上した。これによってシベリアはモスクワ大公国の支配下に入り、ロシア人の毛皮商人がさらに東を目指して進出することになった。
注意 イェルマークの実像 イェルマークを「イヴァン4世に派遣された探検家」とするのは誤っている。イェルマークは「コサックの隊長」というと聞こえは良いが、その実像はヴォルガ川を根城に集団で略奪や追いはぎをしていた「盗賊団の首領」と言ったところであり、イヴァン4世が派遣したわけではなく、シベリア開発の特権を与えられた富豪ストロガノフ家に雇われたに過ぎない。また、無人の原野を探検したわけではなく、その遠征は狩猟民や遊牧民からの略奪行為に等しいものであった。イヴァン4世は当初はそのような行動を非難し、ストロガノフにイェルマークの活動を禁止したほどであったが、シビル=ハン国を征服したイェルマークの使者がその領土とクロテンや狐など沢山の貴重な毛皮を献上すると、その成功を追認しイェルマークとコサックたちの罪を許したのだった。それもイヴァン4世の最晩年のことであった。
シベリアの毛皮納税制度 イェルマークの不慮の死後、残った遠征隊はモスクワに帰り、大歓迎を受けた。このイェルマークの遠征以来、シベリアはモスクワの支配下に入った。原住民はヤサクと呼ばれる毛皮による貢租を毎年納めなければならなくなったが、それは酋長一人に付き、クロテン426枚、キツネ300枚、ビーバー61枚、リス1000枚と定められ、1605年には総計6万枚以上になったという。<外川継男『同上書』 p.105>
注意 イェルマークの実像 イェルマークを「イヴァン4世に派遣された探検家」とするのは誤っている。イェルマークは「コサックの隊長」というと聞こえは良いが、その実像はヴォルガ川を根城に集団で略奪や追いはぎをしていた「盗賊団の首領」と言ったところであり、イヴァン4世が派遣したわけではなく、シベリア開発の特権を与えられた富豪ストロガノフ家に雇われたに過ぎない。また、無人の原野を探検したわけではなく、その遠征は狩猟民や遊牧民からの略奪行為に等しいものであった。イヴァン4世は当初はそのような行動を非難し、ストロガノフにイェルマークの活動を禁止したほどであったが、シビル=ハン国を征服したイェルマークの使者がその領土とクロテンや狐など沢山の貴重な毛皮を献上すると、その成功を追認しイェルマークとコサックたちの罪を許したのだった。それもイヴァン4世の最晩年のことであった。
Episode 溺死したイェルマーク
イェルマーク(エルマークとも表記)は、ストロガノフ家という大富豪の計画したシベリア遠征隊の隊長として雇われた。コサック兵その他の兵士1650名を従え、1582年にシビル=ハン国の本営クチュームを陥れた。イヴァン雷帝は初めはコサックのシベリア遠征を認めていなかったが、この勝利に感激してさらに援軍500人を送った。しかしシベリア側の抵抗も激しく、1585年8月には突如イェルマーク軍の襲い、逃げようとしたイェルマークはヴァラス川で溺死した。鎖帷子が重すぎて舟まで泳ぎ着くことができなかったためであった。<外川継男『ロシアとソ連邦』1991 講談社学術文庫 p.105>シベリアの毛皮納税制度 イェルマークの不慮の死後、残った遠征隊はモスクワに帰り、大歓迎を受けた。このイェルマークの遠征以来、シベリアはモスクワの支配下に入った。原住民はヤサクと呼ばれる毛皮による貢租を毎年納めなければならなくなったが、それは酋長一人に付き、クロテン426枚、キツネ300枚、ビーバー61枚、リス1000枚と定められ、1605年には総計6万枚以上になったという。<外川継男『同上書』 p.105>