コサック
南ロシアの草原で半農半牧生活を送る人びと。15世紀頃、武装騎馬民として結束しながら、特権を与えられロシアの辺境警備などにあたるようになった。その後もウクライナやロシアで自治的な軍事集団としての伝統を維持し、20世紀まで続いている。
14世紀ごろから、ロシアのモスクワ大公国における農奴制の強化に伴い、自由を求めて流亡する農民が増え、その中で南ロシアの草原地帯に移り、半農半牧の生活を送るようになった人びとをコサック(ロシア語ではカザーク、ウクライナ語ではコザーク。コサックは英語の発音)という。もともとカザークはトルコ語からきた言葉で「自由な民」という意味であった。
イヴァン4世の時代に、シベリア征服を行ったイェルマークは、そのようなコサックの隊長であった。また農民反乱の指導者となったステンカ=ラージン、プガチョフなどがコサックの出身である。
17世紀、リトアニア=ポーランド王国の支配を受けていたウクライナのドニエプル川中流を拠点とするザポロージェ=コサックのアタマン、ボグダン=フメリニツキーは、1648年に反乱を開始し、それはウクライナの独立運動となった。ポーランド軍に敗れたフメリニツキーはモスクワのロマノフ朝に支援を要請、1654年にウクライナのコサックはロマノフ朝のツァーリに臣従することとなった。ウクライナを巡るロシアとポーランドの戦争は、1667年に講和となり、その結果、ウクライナの東半分とキエフはロシア領となった。 → ポーランド王国の「大洪水」
近代に入ってもコサックはツァーリの忠実な軍事力となり、農民反乱や社会主義運動などを抑える反革命勢力の中心となった。ロシア革命が勃発してロマノフ朝が倒されてからも、ソヴィエト政権と反革命軍の内戦では、革命軍である赤軍に対して戦う反革命軍である白軍の主戦力となって戦った。20世紀のロシア文学の大作、ショーロホフの『静かなドン』は、ロシア革命にほんろうされるドン=コサックを描いている。
南ロシア草原の武装騎馬集団
彼らは15世紀頃から、現在のロシアやウクライナの草原(ステップ地帯)に定住し牧畜・狩猟の他、漁業、交易などで自治的な集団生活を送り、カスピ海北部から侵入してくるトルコ系遊牧民タタール人と戦いながら次第に騎馬生活に長ずるようになり、隊長(アタマン)に指導された武装騎馬隊をつくりようになった。16世紀ごろからは特権を認められた代わりにロシアの国境防備などに従うようになった。彼らは地域別にドン=コサック、ザポロージェ=コサック、ヤイク=コサック、シベリア=コサックなどの戦士集団を形成するようになった。イヴァン4世の時代に、シベリア征服を行ったイェルマークは、そのようなコサックの隊長であった。また農民反乱の指導者となったステンカ=ラージン、プガチョフなどがコサックの出身である。
17世紀、リトアニア=ポーランド王国の支配を受けていたウクライナのドニエプル川中流を拠点とするザポロージェ=コサックのアタマン、ボグダン=フメリニツキーは、1648年に反乱を開始し、それはウクライナの独立運動となった。ポーランド軍に敗れたフメリニツキーはモスクワのロマノフ朝に支援を要請、1654年にウクライナのコサックはロマノフ朝のツァーリに臣従することとなった。ウクライナを巡るロシアとポーランドの戦争は、1667年に講和となり、その結果、ウクライナの東半分とキエフはロシア領となった。 → ポーランド王国の「大洪水」
近代に入ってもコサックはツァーリの忠実な軍事力となり、農民反乱や社会主義運動などを抑える反革命勢力の中心となった。ロシア革命が勃発してロマノフ朝が倒されてからも、ソヴィエト政権と反革命軍の内戦では、革命軍である赤軍に対して戦う反革命軍である白軍の主戦力となって戦った。20世紀のロシア文学の大作、ショーロホフの『静かなドン』は、ロシア革命にほんろうされるドン=コサックを描いている。