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護国卿

ピューリタン革命が進行する中、共和政を終わらせたクロムウェルが1653年に就任した地位。世襲の独裁権力であったが、その死後、その体制は崩れた。

 1653年ピューリタン革命が進行する中、権力を握ったクロムウェルが就任した地位。「統治章典」では「イングランド、スコットランド、アイルランドからなるコモンウェルスとその付属地域の主席行政官にして治安官」と規定されている。これによってクロムウェルの独裁権力の行使が可能となり、共和政の実質は失われた。
 1653年12月16日、士官会議で成立した「統治章典」はイギリス史上唯一の成文憲法であったが、それは全文42条、第1章で共和国の最高の立法権がプロテクター(護国卿)と議会にあると規定、行政権はプロテクターと国務会議がもち、プロテクターは官吏任免権、軍事権、外交権を持つとされた。その他、選挙は議会に反抗しなかったもので動産または不動産を200ポンド以上持つものに限定され、議会は3年に1回開催、議会の可決した法律はプロテクターの承認がなくても法律として成立する、などが規定された。
 この法にもとずいて、同日、クロムウェルはプロテクターに就任した。いつもの軍服を脱ぎ捨てたクロムウェルに対し、兵士や民衆は失望の色を隠さなかった、という。<浜林正夫『イギリス市民革命』P.277-8>

クロムウェルの国王辞退

 護国卿体制は次第に軍事独裁色を強め、1655年8月からは全土を11の軍管区に分け、軍政官が支配することとなった。議会は「護国卿議会」と呼ばれるようになり、独立派の軍部が中枢を占め、長老派、平等派、クェイカー教徒などは迫害された。1657年3月、議会はクロムウェルを「オリバー1世」として国王に推挙しようと試みたが、それは国王に据えることによってむしろその権力を制限し、議会のコントロール下におこうとしたのだったが、クロムウェルも議会に縛られることをわかっていたので、国王就任を拒否した。王位の辞退後、クロムウェルは議会を一院制にしておくと抑制が効かなくなる怖れを感じ、第二院を設置し、40~70人の議員で構成させた。しかし第二院議員の大半はクロムウェルの友人であったため、かえって第一院(庶民院)の抑制が効かなくなるという、戦略ミスを犯すこととなった。<君塚直隆『物語イギリス史(下)』2015 中公新書 p.23>
 1658年にクロムウェルが急死すると、その子リチャードが護国卿の地位を世襲したが、クロムウェルの独裁に不満を強めていた富裕層、貧困層のいずれもが不穏な動きを示し、リチャードは統治できずわずか8ヶ月で退任し、護国卿体制は崩壊し、王政復古へと向かう。
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