詳説世界史 準拠ノート(最新版)
第9章 近世ヨーロッパ世界の展開
1節 重商主義と啓蒙専制主義
■ポイント 西ヨーロッパに生まれた主権国家は、どのような経済政策をとったか理解しよう。
1.a 重商主義政策 「17世紀の危機」をへて成立したb 主権国家 が採用した経済政策。
- その意味:c 国家(王権)が経済に介入し、国を富ませるための経済政策。
- ▲国富の使途:d 官僚制 とe 常備軍 の維持、及び宮廷の運営、戦費に充てられた。
- a 重金主義 :16世紀のb スペイン にみられ、主に金銀の獲得をめざす政策。
- c 貿易差額主義 :輸入を抑制、輸出を促進して、国際収支をよくすることを目指す政策。
→ 16世紀後半から17世紀のd イギリス 、e オランダ などに見られる。 - ▲f 産業保護主義 :17世紀後半、国内産業を保護育成するため、輸出を促進し、輸入を制限する貿易政策。
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解説
重商主義には、絶対王政のもとで宮廷(国王)が特権的な大商人を保護する宮廷的重商主義と、市民階級の進出に対応して自国の産業資本の保護育成を国家政策とする国民的重商主義の違いも見られる。前者は16世紀のスペインと17世紀のフランス、後者は18世紀のイギリスに典型的にみられる。
3.その典型的な例
- a フランス b ルイ14世 時代 :財務総監c コルベール の経済政策に典型的に見られる。
d 東インド会社 再建・e 特権マニュファクチュア の創設などによる国内の商工業の育成。 - f イギリス ピューリタン革命、名誉革命を経て商工業者の発言力強まる。(次項)
→ 国内産業の保護政策を国家に強く求める。 - 重商主義政策をとるイギリス・フランスなど有力国は海外にg 植民地 の獲得をめざす。
→ そこからもたらされた富により、18世紀のヨーロッパは再び成長期となる。
解説
コルベールの重商主義政策は、具体的には従来の毛織物・絹織物・絨毯・ゴブラン織などの産業に加えて、兵器・ガラス・レース・陶器などの産業を起こし、国立工場を設立し、特権的なマニュファクチュアを育成したこと、北アメリカにはミシシッピ川流域に広大なルイジアナ植民地を開発した(ミシシッピ川は一時コルベール川といわれた)こと、インド経営のためにフランス東インド会社を再建したことなどがあげられる。しかし、それによって得られた国富は、ルイ14世の度重なる対外戦争や、ヴェルサイユ宮殿造営などで浪費されていった。
解説
イギリスの重商主義は長期にわたっており、また時期によってその性格が異なる。16世紀後半のエリザベス1世の時期は貿易差額主義が中心で宮廷によって展開された。17世紀には特権商人の利益独占に反発したジェントリ層がイギリス革命を行ったと言えるが、ピューリタン革命でのクロムウェルの航海法は、産業保護主義の性格が強い重商主義政策であり、それは基本的には18世紀のウォルポールの議会政治の時代に継承される。英蘭戦争はその現れであった。しかし、18世紀に並行して産業革命が始まると、成長したブルジョワジーは自由貿易主義を主張するようになり、穀物法や航海法が廃止されて重商主義の時代は終わる、と言う経過をたどる。
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イ.イギリス革命
■ポイント イギリス革命は、なぜ、どのように起こったか。また何をもたらし、その限界は何であったか。
Aスチュアート朝 の成立。- 1603年 テューダー朝が断絶。a スコットランド 王を迎えb ジェームズ1世 とする。
→ イングランドとスコットランドの 同君連合 。(国王は同一だが議会はそれぞれ存在した。) - 17世紀のイギリス社会
- c ジェントリ(郷紳) :土着した貴族として名望のある大地主。地方行政や議会で発言権を強めていた。
- 都市部では商工業の発達に伴い、市民層が成長し自由な経済活動を要求する。
- 農村では旧来の領主層は力を失い、d 独立自営農民(ヨーマン) が成長。
→ 富農の一部は毛織物e マニュファクチュア を経営。資本を蓄積していく。
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B絶対王政 の展開- a ジェームズ1世 (1603~25):b 王権神授説 をとなえ、専制政治を展開。
=c 王権は神から授かったものであり人民に拘束されないという思想。 - d 議会 を無視して新税をとりたて、王権を支える少数の大商人に独占権を与える。
- e 国教会 による宗教統制の強化。 → カルヴァン派=f ピューリタン の不満強まる。
= 議会を支持するg ジェントリ・ヨーマン・商工業者 に信者が多かった。 - 1620年 弾圧を避けたf ピューリタン が北アメリカへの移住を始める。(後述)
- h チャールズ1世 (1625~49):対外戦争の戦費を得るために課税を強行、議会を無視。
- ▲i フィルマー (王に仕えた政治思想家)の説くb 王権神授説 を根拠にする。
- 1628年 議会がj 権利の請願 を可決。中心人物 エドワード=コーク。その内容は、
・k 議会の承認なしに課税しないこと ・l 国民を法律によらず逮捕しないこと など。
= マグナカルタ以来の国民の歴史的な権利を掲げ、国王の専制政治を批判した。 - 1629年、国王はそれを無視し、議会を解散。
→ 1640年まで議会開催されず、国王の専制政治が続く。
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C 王権と議会の対立激化- 1639年 a スコットランド の反乱 国王の国教会強制に対して新教徒が反発し反乱を起こす。
- 1640年 国王が戦費調達のため議会を召集したが、課税に反対したのですぐ解散=b 短期議会 。
→ 再度議会を召集。議会が国王を非難し対立深まる。1653年まで解散されずc 長期議会 となる。 - ▲1641年 議会、国王の国教会強要に対し 大抗議文 を出し、その宗教政策を批判。
背景 宗教各派の対立 d 国王は国教会を強制し、カトリック・ピューリタン・長老派を弾圧した。
解説
エリザベス1世の時に国教会の体制は確立したがカトリックの勢力もまだ強かった。国教会はローマ教皇の権威を否定しているので広く言えばプロテスタントであるが、その教義や儀式にはカトリック的な要素を強く残しており、国王を頂点とする主教制度を採っていた。それに対して厳格な聖書中心の信仰に徹するべきであるとするピューリタンは国教会に反発し、主教制度を否定した。しかし、ピューリタンの中にも主教制度を完全に否定して教会の独立を主張する独立派と、長老という指導者による教会組織が必要と考える長老派の違いがあった。前者はイングランドに多く、狭い意味でピューリタンと言われることもある。後者はスコットランドに多くプレスビテリアンと言われる。国教会信徒以外のプロテスタントをまとめて「非国教徒」ともいう。
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Dピューリタン革命 1642年 a 王党派 とb 議会派 の内乱始まる。- a 王党派 =聖職者・特権的大商人・貴族・大地主などの国教会信徒。北西部に多い。拠点はヨーク。
- b 議会派 =ピューリタンを中心とした勢力。東南部に多く、拠点はロンドン。次第に二派に分裂。
- c 独立派 :国王との戦いの徹底、教会の独立を主張。ジェントリ・独立自営農民・新興商人に多い。
- d 長老派 :王権に妥協的で立憲王政と長老による教会運営を主張。大商人・保守的ジェントリに多い。
- e オリヴァ=クロムウェル c 独立派 を指導。
- f ジェントリ出身で熱心なピューリタン 。g 鉄騎隊 を組織。
= ジェントリ・ヨーマンを中心とし、ピューリタン信仰によって結束した軍隊。 - さらに、▲h 新型軍 (New Model Army)を編成。
- 1645年 ▲i ネースビーの戦い 新型軍が活躍して、王党派軍を破る。
- 議会からd 長老派 を追放。独裁的な権力をにぎりる。
- 1647年 国王j チャールズ1世 を捕らえる。
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e クロムウェル
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E共和政 の実現- 1649年 国王a チャールズ1世 を処刑。
= b 共和政 =▲c コモンウェルス といわれる。議会は一院制となる。 - 1660年までの約10年、イギリスの歴史上、唯一の王のいない時期となった。
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Fクロムウェル の政治(1649~58年)- 中産階級を保護(王党派の土地を没収し地主に与える)、貧農や労働者の要求は抑圧。
→ 土地の均分、普通選挙を要求するa 水平派 を厳しく弾圧。 - 1649年 b アイルランド とc スコットランド を王党派の拠点であるとして征服した。
特にb アイルランド では、大規模な土地の没収を強行し、植民地化を進めた。
→b アイルランド 問題
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Gイギリス=オランダ(英蘭)戦争 17世紀後半 3次にわたる海上貿易の利害をめぐる両国の戦争。- 1651年 a 航海法 制定(~1849年) = b 重商主義政策 の推進
内容:c 本国および植民地の輸入品は、イギリスか産出国の船のみで輸送すること。
→ 中継貿易に依存するd オランダ に打撃を与える。 - 1652年~54年(第1次) イギリス海軍がオランダ海軍を破り、制海権を獲得。
- ▲1655年 カリブ海のスペイン領e ジャマイカ を占領し、殖民地とする。
- クロムウェル死後の王政復古期も戦争続く。
- 1664年 イギリスがオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し、f ニューヨーク と改称。
- 1665~67 年(第2次) 1672~74年(第3次) オランダ領のほとんどがイギリスに奪われる。
- 結果:g イギリスの優勢のうちに終わり、その大西洋上の海上覇権が確立することとなった。
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Hイギリス革命 の意義
※1688年のa 名誉革命 まで含め、あわせてH イギリス革命 という。
- 絶対王政を終わらせ、議会による立法を基にしたb 議会政治の確立 をもたらした。
- 特権商人の独占権を廃止するなど、市民層の要求を実現しc 資本主義経済の成立 の素地ができた。
- その限界 d 市民の平等(参政権)・経済活動の自由などは実現しておらず、完全な市民革命とは言えない。
→ 市民社会は、18世紀後半のアメリカ独立革命、フランス革命をへて実現する。
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ウ.イギリス議会政治の確立
■ポイント イギリスの議会政治と政党政治はどのようにしてうみだされたか。またその意義は何か。
Aクロムウェルの独裁- 1653年 a 護国卿 に就任、長期議会を解散させる。軍事的独裁体制をしき、国民の不満強まる。
- 1658年 死去、その子リチャードが嗣ぐが、8ヶ月で辞職。
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B王政復古- 1660年 a チャールズ2世 が即位。(先王の子。スチュアート朝の復活。在位~85年。)
← 議会派の中の長老派が王党派と妥協し、議会の尊重を条件に王政復古を認める。 - 国王、再びb カトリック を擁護し、ピューリタン弾圧を強化したので、議会が反発する。
- 議会による王権制限のための立法
- 1673年 c 審査法 :官吏を国教会信者に限定し非国教徒が公職に就くことを禁止。
- 1679年 d 人身保護法 :法によらぬ逮捕・裁判を禁止し市民的自由を保障。
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C政党の成立 1670年代末 議会内に二つの派が生まれる。e ウィリアム3世 とf メアリ2世
- a トーリ党 :国王の権威を重んじ、王権と国教会を支持。
=貴族・ジェントリーを中心にb 国教徒と地主階級 が多い。 - c ホイッグ党 :議会の権利を重んじ、王権の制限を主張。
=貴族・ジェントリーと共にd 非国教徒と商工業者 が多い。
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D名誉革命- 1685年 a ジェームズ2世 即位。カトリックの復活を図る。
- 1688年 議会のトーリ、ホイッグ両党が共同し、国王追放を議決。
b オランダ総督オラニエ公ウィレム3世 を迎える。
= 新教徒である国王の長女c メアリ の夫でやはり新教徒。 - 1689年 議会、d 権利の宣言 Declaration of Rights を決議。両国王が承認し、
e ウィリアム3世 ・f メアリ2世 として共同統治にあたることとなる。 - 戦闘も流血もなく、権力の交替が行われたので、D 名誉革命 と言われる。
- 同年12月 議会、権利の宣言を成文化し、g 権利の章典 制定。
※意義:h 国民の生命・財産の保護などと共に、議会主権を明文化して立憲君主政を確立させた。
→ 現在もマグナカルタなどとならんでi イギリスの憲法の一部 を構成している。 - ただし、j 選挙権 は貴族やジェントリなど資産を持つものに限られていた。(制限選挙制)
解説
オランダのウィレムは、当時、フランスのルイ14世の侵攻に苦しんでいたため、イギリスと同君連合となることで形勢を逆転させる好機ととらえた。ウィレムは海陸の大軍を率いてイギリスに上陸した。イギリス国内にも反国王の軍事的動きが強まったため、ジェームズは反撃をあきらめ、カトリック国フランスに亡命した。ウィレムは妻メアリと共にイギリス国王ウィリアム3世となったが、同時にオランダ総督(実質的国王)ウィレム3世なのであり、イギリスとオランダが同君連合になったことに注意すること。なお、後にウイリアムの死により、同君連合は解消された。
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Eウィリアム3世 の統治- 1689年 a 寛容法 の制定 国教徒以外のプロテスタントの信仰の自由認められる。
- ▲1689年からフランスとのb 植民地抗争 (第2次英仏百年戦争)始まる。(後出)
- 1694年 c イングランド銀行 の創設・d 国債制度 の整備により対外戦争遂行能力を高める。
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F大ブリテン王国(グレートブリテン) の成立- 1707年 a アン女王 の時、b スコットランド と合同して成立。
解説
イングランド王国とスコットランド王国が、それまでの二つの王国が共通の一人の王をいただく同君連合の体制から、共通の議会を持ち一人の国王をいただく連合王国という、より緊密な関係を結んだ。これはイングランド王国による実質的なスコットランド併合であり、スコットランドは、長老派教会主義や独自の法律、裁判制度などを保ったが、政治的、経済的にはイングランドに従属することとなった。→ 従来の同君連合からc 連合王国 の形態となり、一つの議会に統合される。 - 1713年 d スペイン継承戦争 で勝利し、e ユトレヒト条約 で海外領土を拡大。(次項)
- 1714年 ステュアート朝が断絶、議会の立法によりドイツから迎えたf ジョージ1世 が即位。
= g ハノーヴァー朝 成立。新国王は英語をほとんど話せず、政務を大臣に任せる 。 - h 内閣 の成立:議会の多数をしめる政党によって組織されるようになる。
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G責任内閣制 の成立 17世紀末~18世紀初め- 1721年 ホイッグ党のa ウォルポール が首相(初代首相)となる。~42年
=b 内閣は国王ではなく、議会に対して責任を負う という制度。 - c ”国王は君臨すれども統治せず” というイギリス立憲王政の原則が確立。
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・政治制度、財政制度の整備が進んだ18世紀後半、イギリスは産業革命の時代を迎える。
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エ.ルイ14世の時代
■ポイント ルイ14世の政治の本質と、17世紀の国際政治の経緯を正確に捉える。
A ルイ14世
- a 太陽王 と呼ばれ、絶大な権力をふるう。b ボシュエ の主張する、
c 王権神授説 にもとづき、d 「朕は国家なり」 と述べる。(右図) - 財務総監 e コルベール を登用しf 重商主義政策 を展開。(前出)
- 1664年 g 東インド会社 再建。
→ インド植民地(シャンデルナゴルとポンディシェリを建設)。(後出) - h ヴェルサイユ宮殿 を建設。 → フランス絶対王政の全盛期を象徴。
- 治安・交通・衛生などに積極的に取り組む。
- 実態 i 貴族や都市自治体など特権団体 が大きな力を持ちっていた。
→ 王権による中央集権化の進み方はゆるやかだった。 - ▲1682年 ラ=サール、北米大陸のミシシッピ流域を探検。j ルイジアナ と命名。(後出)
解説
ルイ14世の統治は、絶対王政と言っても、国王から一定の特権を与えられたギルドのような職能団体や都市・村落などの地域共同体を媒介しての支配であり、中央集権的に直接国民を支配していたわけではなかった。そのような法人格を持った社会集団を中間団体または社団(corps)といっている。そのような観点から、この時代を「絶対王政」と規定せず、主権国家の形成期の一つの形態として「社団国家」と捉える見方も出されている。
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B侵略戦争 の展開。- 自然国境説を根拠としてライン川までの領有を主張。 → ハプスブルク家との対立深まる。
- a 南ネーデルラント継承戦争 1667~68 スペイン領ネーデルラントの継承権を主張して出兵。
- b オランダ戦争 1672~78 南ネーデルラント継承戦争の際のオランダの妨害に対する報復。
- c ファルツ戦争 1688~97 ファルツ選帝侯領(ライン川左岸)継承権を主張して出兵。
- ▲同時にアメリカ植民地でd ウィリアム戦争 起こる。 → e 第2次英仏百年戦争 の開始。
→ いずれも大きな成果は無く、多額の戦費は税金でまかなわれたので、民衆の負担は増大した。
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Text p.228
C 絶対王政の強化 1672年 財務長官a コルベール を遠ざける。- 1685年 カトリック国家の体制強化を図り、b ナントの勅令を廃止 する。
→ フランスにおける新教徒(c ユグノー )の信仰が認められなくなる。 - 影響:d ユグノーの商工業者が多数亡命したため、国内の産業発展が阻害された。
解説
新教徒であるユグノーはフランスではすでに少数派となっていたが、ルイ14世は宗教的な国家統一を進める意味でナントの勅令廃止に踏み切ったと思われる。ユグノーは改宗を強要され、国外移住も許されなかったが、密かに多くのユグノーが外国に亡命、とくにオランダ、プロイセン、スイスなどに逃れた。ユグノーは商工業者に多く、優れた技術を持っていたものも多かったので、これによってフランスの産業は停滞し、亡命先の国々の産業が盛んになった(スイスの時計業など)と言われている。
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Bスペイン継承戦争- 1701年 スペイン=ハプスブルク家の断絶に乗じ、孫のa フェリペ5世 をスペイン王位につける。
- 要因:b ルイ14世 がスペイン=ハプスブルク家の王位断絶に介入し領土拡大をはかったこと。
- 対立:c フランス 対 d オーストリア・イギリス・オランダ・プロイセン
- 連動:新大陸での英仏植民地戦争=▲e アン女王戦争 が同時に起きる。
- 1713年 f ユトレヒト条約 :ブルボン家のスペイン王位継承認められたが、イギリスは領土を拡大。
- フランスとスペインの合併は永久に禁止される。
- 新大陸のg ニューファンドランド ・h アカディア ・i ハドソン湾地方 をイギリスに割譲。
(イギリスは他に、スペインからj ジブラルタル ・k ミノルカ島 を獲得した。) - 1714年 l ラシュタット条約 でオーストリアに南ネーデルラントなどを割譲。
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・フランスの劣勢、財政悪化が始まり、フランス革命の勃発につながる。 1715年 m ルイ15世 即位
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オ.プロイセンとオーストリア
1.プロイセン
■ポイント 東方の小国から軍事大国化の歩みを理解し、それをめぐる西欧諸国の外交関係の変化に注目する。
Aプロイセン王国 三十年戦争後の17世紀後半 ドイツ諸侯の中で有力な領邦の一つとして台頭。- 1701年 a スペイン継承戦争 で神聖ローマ皇帝を助け、王国に昇格。
- 18世紀前半 2代b フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世 財政・行政の整備、軍備の増強を進める。→ c 絶対王政 の基礎を築く。
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Bフリードリヒ2世 の統治- 1740年 オーストリアのa マリア=テレジア がハプスブルク家領を相続することに異議を唱える。
→ b シュレジエン (地下資源が豊かで工業が盛んな地域。現在はポーランド領)を占領。 - c オーストリア継承戦争 1740~48年
- 要因:プロイセンのB フリードリヒ2世 の領土拡張政策。
- 対立:d プロイセン・フランス・バイエルン公国 対 e オーストリア・イギリス
- 連動:アメリカ大陸ではf イギリス はg フランス とh ジョージ王戦争 を開始。
インドでは同じくi カーナティック戦争 が戦われる(七年戦争の時まで継続)。 - 結果:プロイセン側の勝利、1748年 j アーヘンの和約 でb シュレジェン を領有。
- オーストリアのa マリア=テレジア 、フランスと同盟。 = k 外交革命 (次項)。
- 18世紀後半のヨーロッパ五大国体制 :l イギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシア
→ それぞれの主権国家が、領土拡張の利害を調整しながら、外交関係を展開した。
Text p.229
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C七年戦争 1756~1763年- a フリードリヒ2世 がオーストリアを攻撃し、開戦。しかし孤立し、苦戦。
- 要因:外交革命で孤立したプロイセンのa フリードリヒ2世 が起死回生のため起こす。
- 対立:b オーストリア・フランス・ロシア 対 c プロイセン・イギリス
- 連動:植民地でのフランスとイギリスの戦争が並行して起こる。(後出)
北米大陸でd フレンチ=インディアン戦争 インドでe プラッシーの戦い が起こる。 - 1763年 講和条約のフベルトゥスベルク条約締結。
→ プロイセンはf シュレジエン を確保。列強としての地位を高める。 - 植民地戦争ではg パリ条約 が締結される。
→ 植民地ではイギリスが勝利。植民地帝国(大英帝国)の出現。
a フリードリヒ2世 と
c ヴォルテール
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D啓蒙専制主義- a フリードリヒ2世(大王) はb 「君主は国家第一の僕」 と称す。
- フランスの啓蒙思想家c ヴォルテール を招く。(右図)
- d 啓蒙専制君主 として、上からの改革を進める。
= 信教の自由の承認、産業の育成、司法改革など国民の福祉向上を掲げる。 - 基盤:e グーツヘルシャフト で農民を使役するf ユンカー 階層。
→ 彼らが軍隊・官僚機構の支配的地位を占める体制であった。 - ポツダムにg サンスーシ宮殿 を造営。自らも作曲し、フルートを演奏。
- 特徴:h 市民層の成長が十分でないため、君主が「上からの改革」を主導した。
解説
啓蒙専制君主とは、君主の権力を王権神授説に置くのではなく、法に基づく普遍的なものと捉え、国家の繁栄に責任を持つと考えることで、絶対王政の一つの変形である。フリードリヒ2世は宗教的寛容を表明し、産業の育成などを図るとともに、先進的な文化を採り入れる一方、国家の威信を前面に押しだして対外戦争を強行した。特にオーストリア継承戦争、七年戦争を勝利に導いたことによって「大王」と称賛されたが、国民に権利を与えたり、政治参加の自由を与えるものではなく、その支持基盤は封建的な地主層であるユンカーたちであった。
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・国内のユンカー階級を基盤とした、軍事大国として、19世紀に強大化する。
2.オーストリア
■ポイント オーストリア=ハプスブルク帝国の大国化の過程と、多民族国家としての実態を知る。
Text p.230
Aオーストリア の大国化- 1699年 a カルロヴィッツ条約 でオスマン帝国からハンガリーなどの領土を獲得。(後出)
→ 領土拡大と共にハンガリー人、チェック人、クロアティア人などを含むb 複合民族国家 となる。 - 神聖ローマ皇帝位は従来のc ハプスブルク家 の継承が続く。
- 1713年 カール6世、プラグマティッシェ=ザンクティオンにより家督相続原則を定める。
- 1714年 d スペイン継承戦争 に参戦し、南ネーデルラント(後のe ベルギー )・
ミラノ・南イタリアなどの領有が認められる。
→ ヨーロッパの東西に領土を有する大国となるが、同時に多民族国家として困難深まる。
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Bマリア=テレジア カール6世の娘。ハプスブルク家の家督を継承。- 1740年 バイエルン公が反対を表明。プロイセンのa フリードリヒ2世 が同調。
- b オーストリア継承戦争 となる。 1740~48年
- 1745年 A マリア=テレジア の夫フランツ1世が神聖ローマ皇帝位につく。
- 1748年 アーヘンの和約で講和。プロイセンのc シュレジエン 占領を認める。
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C外交革命- 1756年 オーストリアa マリア=テレジア がフランスのb ルイ15世 と同盟を結ぶ。
→ プロイセンを孤立させ、シュレジェンの奪回を図った。 - 意義 c ヨーロッパ国際関係の基軸であった、ハプスブルク家とフランス王家の対立が解消された。
→ オーストリアはロシアとも接近し、プロイセンの孤立をはかる。 - 新たな対立軸 海外植民地におけるd フランス 対 イギリス
ドイツ語圏におけるe プロイセン 対 オーストリア (ドイツ統一の課題が残る) - 1756年 f 七年戦争 フランス・ロシアと結び、プロイセン・イギリスと戦う。
→ 1763年 フベルトゥスベルク条約 で講和。g シュレジエン を失うが、帝位継承は承認される。 - ▲フランスとの友好関係を続け、娘のh マリ=アントワネット を後のルイ16世の后とする。
解説
外交革命とは、18世紀ヨーロッパの国際関係におけるフランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家という基本的な対立軸が崩れ、この二国(二家)が提携したことを指している。これによって、植民地でフランスと対立を続けていたイギリスと、オーストリアとドイツの主導権を巡って争っていたプロイセンとが提携するに至り、ヨーロッパはフランス=オーストリア対イギリス=プロイセンというブロック対立へと移行した。
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Dヨーゼフ2世 1765~90 マリア=テレジアの子。母の政策を継承しプロイセンに対抗。- 啓蒙専制君主としてa 啓蒙専制主義 政策を実施。
= b 宗教寛容令 、c 農奴解放令 、教育・医療の充実など、上からの近代化をはかる。
→ 中央集権を図ろうとしたが、貴族層や地域社会の抵抗で失敗。 - d 複合民族国家 の状況が続く。
領土内にe チェック人 (ベーメン王国)、f マジャール人 (ハンガリー王国)、北イタリア地方、
さらにベルギーなどが存在した。
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・皇帝の画一的改革に対する反発が起こり、各民族の自治要求が強まる。
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カ.北方戦争とロシア
■ポイント ロシアはどのように近代化を進めたか。また、その大国化はどのように行われたか。
貴族の髭を切るA ピョートル1世
- 自ら西欧諸国を視察し、a 西欧化政策 を押し進め、領土拡張をめざした。
- 東方への領土拡張 シベリア経営を推進 → 清王朝との国境紛争起こる。
- 1689年 b ネルチンスク条約 清(c 康煕帝 )と国境を定める。
- デンマーク人▲d ベーリング にカムチャツカ探検を命じる。
- 1728年 アメリカ大陸との間の海峡に到達。1741年 アラスカを領有。
- 南方:広義のe ロシア=トルコ戦争 オスマン帝国を圧迫しアゾフ海に進出。
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Text p.231
B北方戦争 1700~21年- 当時、a スェーデン がb バルト海 を支配。c カール12世 が統治。
- 要因:ロシアのd ピョートル大帝 がb バルト海 進出をめざした。
- 対立:e ロシア・ポーランド・デンマーク 対 a スウェーデン
- 1703年 f ペテルブルク (後にレニングラードに改称、現在旧称に戻る)建設。
→ 1712年より 首都とされる。ロシアの西欧化の窓口として繁栄する。 - 1721年 ニスタットの和約で講和。
→ ロシアがg バルト海の覇者 となり、ヨーロッパの大国としての地歩を固める。
解説
ペテルブルクの正式名称は「サンクト=ペテルブルク」で、ピョートル1世の守護聖人ペテロに由来するドイツ語風の表記である。1712年からロシア帝国の首都となった。第一次世界大戦が起こるとドイツ語表記をきらい、ロシア語のペテログラードに改称した。ロシア革命で首都はモスクワに移り、さらに1924年にロシア革命の指導者レーニンの名を冠してレニングラードとなった。ソ連崩壊後の1991年に現在のサンクト=ペテルブルクに戻った。
▼
Cエカチェリーナ2世 在位1762~96 ドイツ生まれで、ピョートル3世の妃となる。- 積極的な領土拡張を図る。
- 西方:1772~95年 a ポーランド分割 に加わり、領土を拡大。(次項)
- 南方:1783年 b クリミア半島 のクリム=ハン国 を征服。 オスマン帝国を圧迫。
- 東方:シベリア進出を進め、オホーツク海に進出。1792年 c ラクスマン を日本に派遣。幕府、交渉拒否。
- 初期にはd 啓蒙専制君主 として上からの改革をはかる。ヴォルテール、ディドロとも交遊。
- 1773~75年 e プガチョフの反乱 が起こる。コサックが南ロシアの貧農と結んで起こした反乱。
→ 反乱鎮圧後、国王は貴族と妥協し、f 農奴制を強化 するなど、改革は後退する。
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・バルト海、黒海、カスピ海、北海、オホーツク海に及ぶ大国になるが、国内には農奴制など古い社会が残存。
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キ.ポーランドの分割
■ポイント 啓蒙専制君主を戴くヨーロッパの三強国によって分割されたことの意味を考える。
Aポーランド の状況- 15世紀 リトアニア=ポーランド王国 a ヤゲウォ朝 のもとで全盛となるが、特権的貴族層が実権握る。
- 16世紀後半 a ヤゲウォ朝 が断絶、b 選挙王制 となる。
→ 隣接するa プロイセン・オーストリア・ロシア の介入を招く。 - 18世紀後半 三国による、三次にわたるd ポーランド分割 に
よって、主権国家としてのポーランドは消滅した。その経過は次の通り。
解説
分割前のポーランド王国は、現在のポーランドに加え、その東方のラトビア・リトアニア・ベラルーシ・ウクライナのそれぞれ一部を含む広大な国土を有していた。しかし、ヤゲウォ朝が断絶した後、特権的な貴族(シュラフタと言われる)による選挙王制となり、国王選挙に外国の干渉を招くこととなった。選挙王制と言っても国民が選ぶのではなく貴族が選挙権を持ち、しかも国外からも国王が選出されることがあったことに注意すること。
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左からf エカチェリーナ2世 ポーランド王
d ヨーゼフ2世 b フリードリヒ2世
- プロイセン王が提案し、それぞれ領土を奪う。(右図)
- a プロイセン王国 = b フリードリヒ2世
- c オーストリア帝国 = d ヨーゼフ2世
- e ロシア帝国 = f エカチェリーナ2世
- ポーランドでは、国家を維持するために、憲法制定など近代化を試みる。
→ 貴族間の対立などにより、改革は不十分に終わる。
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C第2回分割 1793年- a フランス革命 が起こり、西欧諸国の関心がポーランドから離れる。
→ その間に、ロシア・プロイセン両国が分割を強行。 - b コシューシコ ら義勇兵を率いて戦うも、ロシア軍に敗れる。
b コシューシコ
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D第3回分割 1795年- プロイセン・オーストリア・ロシア三国がポーランドの残りの国土の分割。
→ ポーランド国家消滅する。
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・ポーランドは、以後1世紀以上にわたり、外国支配のもとにおかれる。
完全な独立の回復は123年後の第一次世界大戦後となる。
完全な独立の回復は123年後の第一次世界大戦後となる。
・ポーランド分割の経過図