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ジェントルマン

貴族、地主からなるイギリスの支配階級。17世紀ごろ階級を形成し、18~19世紀イギリスの政治・経済を支配した。

 ジェントルマンは、狭い意味ではジェントリのことを意味したが、17世紀のイギリスからは広く貴族階級も含めて、ジェントルマンと言われるようになり、支配階級を形成した。つまり、ジェントルマンには、中世以来の家系を継ぐ貴族(約200家族)と、中世後期に土地を集積して地方名望家となったジェントリの二階層からなるが、17世紀にはともに地代収入に依存するという点では同じ存在となった。彼らは、地代によって豊かな生活を営み、直接生産活動や企業経営に携わることなく、政治活動や文化活動に専念できる人々であった。18~19世紀になると、貴族・地主以外にも、植民地のプランテーション保有者や株券などのかたちで巨額の資産をもつものもジェントルマンに加えられるようになった。彼らは、人口の5%程度を占めるに過ぎなかったが、貴族は上院議員、その他のジェントルマンは下院議員となって政治に参画し、パブリック・スクールからオックスブリッジへといわれる教育コースを進んで高級官僚や高級軍人、医師、弁護士のような専門職に就くことができた。ただし、医師や弁護士などの専門職になるのは、嗣ぐべき土地がない次男や三男坊だったのでジェントルマンの中では下位に見られていた。逆を言えば、ジェントルマン以外からそのような地位につくことは非常に困難であるというイギリスの閉鎖的社会が形成された。

ジェントルマンとレディ

(引用)ちなみに、ジェントルマンというのは、近世以降のイギリス社会の支配階層のことで、女性はレディ(正しくは「レイディ」と発音すべきですし、ジェントルウーマンという言い方もないわけではないのですが)とよばれました。膨大な不動産を所有して、その貸し賃で、上流の生活をする人たちのことです。具体的には大地主がそれにあたりました。大地主は、公爵から男爵までの爵位をもつ貴族と、身分的には平民のジェントリにわかれていましたが、17世紀末のイギリスでは、貴族は200家族に満たなかったため、2万家族程度のジェントリと共通の社会層――ジェントルマン階級――を構成しました。ジェントルマン階級は、人口にして、全体の5%程度と見なされています。
 ジェントルマンは、こうして、肉体的な意味での労働や人に雇われるような勤務はしないことが条件と考えられました。自らの資産からの所得によって、サーヴァントを雇い、政治活動とチャリティなどの社会奉仕と趣味・文化活動を事として暮らす「有閑階級」であり、独特の教養と生活様式を維持していることが求められたのです。逆に、織元、つまり、毛織産業の経営者やその労働者である織布工のように、自ら労働をして報酬を得れば、原則として、ジェントルマンの地位を失うとされていました。この原則はイギリスだけでなく、ヨーロッパに共通の慣習でした。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.37>

ジェントルマン支配の安全装置

 フランスでは特権階級の貴族による支配はフランス革命で崩れた。しかし、イギリスでは貴族はジェントルマンとして生き残り、長く上院議員になれるなどの特権を保持した。フランスでは滅び、イギリスではなぜ生き残ったのか。フランスの貴族は第二身分という「身分」であり固定化されていて、第三身分の者が大金持ちになったから貴族になると言うことは原則として無く、貴族はどんなに貧しくとも貴族であるという固い構造になっていた。ところがイギリスの貴族は数が極端に少なく、またジェントリと同じくジェントルマンと言われるようになっていた。ジェントリ階層の大部分のジェントリは平民であるから、ジェントルマンでない人も努力し運が良ければそれになれたし、ジェントルマンでも働かなければならないほど貧しくなれば、それはジェントルマンではなくなると言う、柔らかい構造であった。フランスでは貴族支配に不満な第三身分は貴族階級を倒すしかなかったのに対して、イギリスではジェントルマンなろうとした人は沢山いても、それを倒そうとした人は少なかったのではないか。
 ジェントルマンの次男や三男にはジェントルマンから転落する危惧が常にあったが、彼らの受け皿となり、ジェントルマン支配の安全弁となったのが植民地であった。彼らは植民地に行って現地の高級官僚になるか、農園の経営か貿易で成功するかということによってジェントルマンの地位を確保した。またジェントルマンでない若者も、野心を持って植民地に渡り成功してジェントルマンになると言う途があった。<川北稔 同上 p.149-150>
 特に東インド会社に入り、植民地インドで高級官吏として私腹を肥やして帰国して土地を買い、ジェントルマンの地位を得て下院議員となるような人も多かった。そのような人をネイボッブといった。

ジェントルマン資本主義

イギリス資本主義の特質を、ジェントルマンによる金融・サービス業などの発展にあるとする見方。

 イギリス資本主義の特色を、産業革命に始まる工業化と製造業の発展を中心に理解するのではなく、ジェントルマンと言われる地主・貴族層が担っていた農業資本主義の発展と、彼らによるロンドンのシティを中心とする金融・サービス業が合体した「ジェントルマン資本主義(Gentlemanly Capitalism)」に重きを置く考え方が有力になっている。それはイギリスの歴史家ケインとホプキンスが『ジェントルマン資本主義の帝国』(邦訳1997)で提唱した新学説であり、イギリス史の視点としては常識化しているという。<以下、川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史 帝国=コモンウェルスのあゆみ』2000 有斐閣アルマ による> → 18世紀のイギリス

産業革命の相対化

 その考え方では、産業革命はイギリス資本主義の成立の絶対的条件ではなく、相対化される。イギリス経済の中では、「モノ」づくりに携わる工業・製造業よりも、「カネ」を扱う金融・サービス部門が優位に立っていたのであり、地域的にはイングランド北西部の工業地帯よりも、ロンドンのシティとイングランド南東部で経済的繁栄と富の蓄積が大きかったと指摘している。また、この新しい学説では、イギリスの海外膨張と帝国主義の原因を、本国側の経済的要因に求め、イギリス国内史と帝国史を共通の枠組みで理解しようとしている。

19世紀のジェントルマン

 イギリス近代史にとって、産業革命に象徴される製造工業は、全体としてはあまり重要ではない。むしろ、地主や証券保有者で、19世紀以降は主にパブリック・スクールと呼ばれる特別の私立学校からオクスフォードケンブリッジ両大学や、ロンドンに4つあった法律家を養成するための高等法学院(インズ・オヴ・コート)などに進学し、教育を受けたジェントルマンたちの活動こそが、イギリス経済を支えてきたのだというのである。いいかえれば、金融やサービスの活動こそが、イギリス近代経済の本質だという見方である。

ジェントルマンの政治的優位

 ジェントルマンの政治的優越も明確で、18~19世紀を通じて、上院は当然ジェントルマンの上流である貴族に独占され、下院議員の大半はジェントルマンのうちの貴族ではない平民身分のジェントリが占めていた。実は、マンチェスターなどの産業資本家、いわゆるブルジョワは議会で主力となることはなかった。19世紀前半の穀物法の廃止などの自由貿易主義を実現させた自由主義的改革も、産業資本家の要求ではあったが、それを実現したのはジェントルマンの力だったのである。

「世界の工場」から「世界の銀行」へ

 また、かつてイギリスは「世界で最初の産業革命」を達成し、工業化の最先端を行く「世界の工場」といわれたが、イギリスが工業生産の側面で世界の先頭を切っていた時期はほんのわずかであった。そして実は19世紀のイギリスは商品貿易では膨大な赤字を抱えており、それを国際金融と海運を含むサービスの分野での大幅な黒字で補填していた。つまり、18世紀のジェントルマンがその資産を民衆に貸し付けることで利子所得を得ていたのが、19世紀にはロンドンのシティの金融界で成功した人々がジェントルマンと見なされ、彼らが海外に投資して世界経済を支配するという「世界の銀行」としてより強く長い影響力を保った。工業力ではアメリカやドイツに追い抜かれても、ロンドンのシティが世界経済の中心であり続けた。

世界恐慌とジェントルマン資本主義

 イギリス資本主義経済は、第一次世界大戦を契機として世界経済の主導権をアメリカに奪われて停滞が始まり、世界恐慌がおこると保護貿易主義に転換し、またオタワ連邦経済会議で帝国内の自治領(ドミニオン)との特恵関税を設けるとともに、閉鎖的なスターリング=ブロックというポンド経済圏を設けていわゆるブロック経済を構築して世界経済への影響録を力を失った、とされているが、最近ではロンドンのシティを中心とした金融やサービス部門のジェントルマン資本主義の伝統は存続しており、世界経済への主導権を失ってはいなかった、との見解が出されている。<川北稔・木畑編 上掲書/秋田茂『イギリス帝国の歴史 アジアから考える』2012 中公新書 p.207->