クロムウェル
ジェントリで熱心なピューリタンであり、独立派を率い、ピューリタン革命を指導、イギリスに共和制を出現させた。権力を握ってからは護国卿として独裁的な権力を行使したため、その死後は革命は後退し王政復古となった。
クロムウェルは自ら「私は生まれながらのジェントルマンである」といっているように、裕福なジェントリとして生まれ、熱心なピューリタンであった。1640年、ケンブリッジ市から庶民院(下院)議員に選出され、長期議会の議員として活躍した。1642年に内乱が勃発すると「鉄騎隊」を編成し議会派の軍事力の中心となり、1644年のマーストン=ムーアの戦いで勝利を収めた。そして1645年のネーズビーの戦いで決定的な勝利を勝ち取り、チャールズ1世は議会軍にひき渡された。1649年、クロムウェルは国王チャールズ1世を処刑、イギリスに最初で唯一の共和政(コモンウェルス)を実現させた。
クロムウェルの人物像
(引用)マーストン・ムア野戦の兵士中の逸物は、一人の新人であった。すなわちオリヴァー・クロムウェルである。彼はハンチントンの微々たるスクァイア(地主)であった。ハンプデンの従弟で、彼と同じく青年時代から清教徒であった。だが、クロムウェルの信仰がハンプデンのそれの如く厳粛なものだったとするも、後者ほどには明朗でなかった。憂鬱で、いつも悪夢にうなされていた彼は、生涯の一部を神秘な霊感の状態の中に過した。彼は普通のイギリス人にみられないくらいの感激家だった。そしてよく涙ぐむのであった。クロムウェルは、自己の信仰を守るためにはあくまで苛酷になれる人物であった。だが、一方、ひたすら清浄生活しか求めない貧しい基督教徒に対しては、無限の愛情を注いだ。大きな戦闘もしくは重大な決定の前夜には、みんなの処から逃れて、聖書と共に閉じこもり、長いこと祈りを捧げている彼の姿が幾回となく、見かけられた。聖書の言葉遣いが、彼の自然のスタイルとなっていた。・・・<アンドレ・モロワ/水島成夫・小林正訳『英国史』(下)1958 新潮文庫(初刊1937) p.433>
クロムウェルの政治
平等派・長老派を弾圧 権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。また議会の穏健派である長老派を1648年には追放して、独立派のみで独占した(これ以後の長期議会を、ランプ議会という。ランプとは残部の意味)。アイルランドとスコットランドの征服
また反革命運動を抑える口実で、アイルランド征服(1649年)とスコットランド征服(1650年)を実行した。アイルランド征服 アイルランドは1171年にイングランド国王のヘンリ2世が侵略し、その主権を主張、形式的にはその属領となっていた。イングランドよりも古いカトリック信仰が根付いており、ヘンリ8世以来の国教会強制も効果を上げていなかった。ピューリタン革命でチャールズ1世が処刑され、その子チャールズがオランダに亡命すると、アイルランドでは彼を国王チャールズ2世として迎えると宣言した。クロムウェルは国内で平等派を武力で押さえた後、1649年夏、アイルランドの王党派を掃討するという名目でみずから1万2千の軍を率いてダブリンに上陸し、王党派・カトリック勢力を弾圧した。その際、一般市民も含む大量虐殺が行われた。この遠征は給与の不払いなどで不満を持つ軍隊に対する恩賞として、没収した土地が与えられた。没収地はロンドンの投機家たちにも与えられ、アイルランド人の土地の40%が奪われたという。これ以来、アイルランドはイギリスにとっての安価な食糧と原材料を供給する「植民地」と化した。 → アイルランド問題
スコットランド征服 チャールズ2世がスコットランドに渡って拠点を作り、イングランドへの南下の動きを示すと、クロムウェルは同じく王党派の撃滅を口実に、1650年にスコットランド遠征を行い、1651年9月のウースターの闘いでスコットランド軍を破った。これによってスコットランドはイングランドに吸収され、1654年4月には合邦が宣言された。
航海法・英蘭戦争
17世紀に海上貿易に進出したイギリスにとって、最大のライバルはオランダだった。1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの貿易競争で優位に立とうとした。英蘭戦争 それに対してオランダは強く反発し、翌1652年から英蘭戦争(第1次、イギリス=オランダ戦争)が始まった。イギリスは海軍が優位に立って戦いを進め、1654年のウェストミンスター条約で講和し、オランダに航海法を認めさせた。しかし、オランダはその後もイギリスとの商業活動ての競合が続き、英蘭戦争も、クロムウェルの死後、王政復古期以降も第2次(1665~67年)、第3次(1672~74)と繰り返され、最終的にはイギリスの勝利となる。航海法もイギリス貿易政策の基本として恵贈され、ようやく自由主義貿易が主流となった1849年に廃止される。
カリブ海への進出
クロムウェルは、イギリス絶対王政のもとで獲得された海外領土に対しても共和政支持を拡げようという口実のもと、艦隊を送って征服活動をおこなった。それは「西方政策」と言われ、西インド諸島や北米大陸のスペイン殖民地に対して攻勢をかけ、ジャマイカ島、バルバドス島、トリニダート=トバゴなどを征服し、これによってイギリス領西インド諸島が形成された。Episode 「バルバドス送りにする」
クロムウェルの一つの側面として、西インド諸島に対する「西方政策」の実態を忘れないようにしよう。これは次の時代のイギリス帝国の繁栄期に引き継がれていく。(引用)彼(クロムウェル)は「ドロイーダの虐殺」後に辛うじて生き残った僅かばかりの(アイルランドのカトリック)住民を手許に集め、バルバドスへ送り込んだ。これ以後、政敵を片っ端から「バルバドス送りにする」――「バルバドス」という言葉にはこのような動詞的用法さえ生まれた――のが、彼の常套手段となった。たとえば、1651年、イングランド西部の町ウスターの戦いで捕虜となった7000ないし8000人のスコットランド人は、新世界の英領プランテーションに売りとばされた。1656年には、クロムウェルの国務会議がアイルランド人の少女1000人と同数の男をジャマイカに送るべしと決議したし、同年クロムウェル自身もスコットランド政府に命じて、男女を問わず失業中で、主人のいない泥棒や浮浪者を根こそぎ逮捕し、ジャマイカに送れと命じた。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 p.150 「白い貧民」>
クロムウェルの独裁
ピューリタン革命を勝利に導いたクロムウェルは1653年、長期議会を解散させ、議会の定めた「統治章典」に受諾して護国卿となってから、58年の死まで独裁者としてイギリスに君臨した。左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動く。
Episode クロムウェルの首
クロムウェルの遺体はウェストミンスター寺院に鄭重に安置された。ところが王政復古となり、クロムウェルが国賊として非難されると、その棺はあばかれ、遺体はバラバラに切断され、首は鉄の棒の先に突き刺されて、その後24年間もロンドンでさらしものにされた。ところが1685年、大嵐がロンドンを襲い、クロムウェルの首は棒の先から落ちてしまった。守衛の一人がその首を自宅に持ち帰り、自宅の煙突のなかにかくし、娘にだけその秘密を明かして死んだ。どのような経緯か明らかではないが、1710年頃、この首が売りに出され、買い取ったものが見せ物にして金を稼いだという。その後も何人かの手を経て、1814年ウィルキンソンという人が買い取って、家宝として保存、1960年にウィルキンソン家の当主がクロムウェルの出身校であるシドニー・サセックス大学に贈ることとし、現在では同校構内に埋葬されているという。<この話は、ジョン・フォーマン『とびきり愉快なイギリス史』ちくま文庫 p.124 にも記載がある。>