王政復古(イギリス)
1660年、イギリス革命の中で共和政が倒れ、ステュアート朝の王政が復活したこと。1688年の名誉革命までを王政復古期という。
イギリス革命の過程で、ピューリタン革命と名誉革命の間にはさまれた、1660~1688年にステュアート朝のチャールズ2世とジェームズ2世の王政が復活した。英語では王政復古を the Restoration という。フランスでは、フランス革命・ナポレオン時代の後にブルボン朝の王政が復活したが、こちらは復古王政と言っている。なお、日本の明治維新は the Restoration of Meiji 。
「1660年、内戦中の行動についての大赦、土地購入の確認、信仰の自由の保証、の3点を約束、それ以外のすべても議会の決定による、という条件を呑んだチャールズ2世は、オランダから帰国、5月25日にドーヴァに上陸した。民衆は熱狂的な歓呼で国王を迎えた。 王政復古後、クロムウェルらの墓はあばかれ、30名の革命首謀者は死刑となり、王権神授説が復活した。」<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.310-312>
イギリスの王政復古
1658年のクロムウェルの死後、その厳格な軍事独裁政権に不満を募らせた国民は、議会内の穏健な長老派を支持するようになっていた。長老派と王党派の妥協が成立した議会は、議会の権限の尊重を国王に約束させることを条件にチャールズ1世の子供でオランダに亡命していたチャールズの国王復帰に同意し、1660年、チャールズ2世として即位し、ステュアート朝の王政が復活した。これによってピューリタン革命で成立した共和政(コモンウェルス)は約10年で終わりをつげ、王政復古となった。「1660年、内戦中の行動についての大赦、土地購入の確認、信仰の自由の保証、の3点を約束、それ以外のすべても議会の決定による、という条件を呑んだチャールズ2世は、オランダから帰国、5月25日にドーヴァに上陸した。民衆は熱狂的な歓呼で国王を迎えた。 王政復古後、クロムウェルらの墓はあばかれ、30名の革命首謀者は死刑となり、王権神授説が復活した。」<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.310-312>
議会の復活
議会も従来の上院(貴族院)・下院(庶民院)が復活、翌61年5月に下院の選挙が行われ、265の選挙区から507人の議員が選出されたが、その大半は旧国王派に占められたので「騎士議会」と言われた。騎士議会はまず、ピューリタン革命で破棄されていたイギリス国教会の体制を復活させた。そのため、カトリックと非国教徒プロテスタントは迫害されることとなった。国王のカトリック転向
チャールズ2世は議会を尊重することを約束して即位しながら、しばらくすると絶対王政の専制政治を復活させようと策動し、まずカトリック教会を復活させようとした。イギリス国教会の立場に立つ議会は、1673年に審査法を制定し、国教徒以外は官吏に採用しないことを定めた。1679年には、国王が反対派を弾圧できないように人身保護法を制定し、不当な逮捕・投獄を禁止した。前者は結果的に信仰の自由を奪い、信仰による差別法であったため、18世紀に批判が強まって廃止されるが、後者は基本的人権の保障への道を拓き、現在も存続している。政党の始まり
王政復古したステュアート朝のチャールズ2世と次のジェームズ2世は王権神授説をとり、カトリック信仰を復興させようとして、議会との対立が再び激しくなった。議会ではチャールズ2世の時、次の国王としてカトリック信者のジェームズを認めるかどうかをめぐり、それを容認するトーリ党と、反対するホィッグ党という政党が形成され、後のイギリスの政党政治へとつながっていく。チャールズ2世は比較的議会との関係は良好であったが、ジェームズ2世は議会に敵対し、カトリックの復興を策したので、トーリ党・ホイッグ党双方が協力して国王を追放して、オランダから新国王ウィリアム3世とメアリ2世を招き、無血で国王の交替を実現した。この名誉革命へによってイギリスでは立憲君主政の政体となる。