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農奴解放令

1781年、神聖ローマ皇帝(オーストリア王)ヨーゼフ2世が農民の封建的負担の廃止、人格的自由などを打ち出した。

 神聖ローマ皇帝でハプスブルク家オーストリア王のヨーゼフ2世啓蒙専制君主としての改革の一環として打ち出された。母マリア=テレジアも一定の近代化政策に着手していたが、啓蒙専制君主としての改革をめざすヨーゼフ2世は、近代化の障害となっていた封建的な領主・農奴関係を解消するという根本的な社会改革に乗り出し、1781年11月1日、農奴解放令(農奴制廃止令)を発布した。それは、ヨーゼフ2世の宗教寛容令と並んで、最も重要な社会改革であり、オーストリア及びその支配下にあったベーメン(チェコ)・ハンガリー・ネーデルラント南部・北イタリアにも大きな影響を与えた。

農奴解放令の内容

 1781年に発布された農奴解放令では、農民には法的身分の自由を始め、移動、職業選択、結婚などの自由が認められ、土地保有の権利とその売買の自由が認められた。なお、1789年2月には、租税・土地台帳令によって、改めて賦役の廃止が決定され、新たな租税が制定された。近代化過程で各国に見られた、中世封建社会以来の農奴制を終わらせる、農奴解放の一つである。

その狙いと限界

 ねらいは、農奴制を廃止することによって土地貴族層の経済的基盤を解体し、国家による農民保護=直接支配をはかり、自作農を創出して租税を負担させ、租税収入の拡大をはかることにあった。この改革によって、新しい中間層が創出され、工業化の前提となる労働力を産みだされるという、大きな社会的変動が始まった。しかし、特権と経済的基盤を奪われる土地貴族層は激しく反発した。また、ヨーゼフ2世は、オーストリア以外の地域でも一律に実施しようとしたため、特に土地貴族層の基盤が強固であったハンガリーでは抵抗が強かった。ヨーゼフ2世存命中はこの法令は守られたが、1790年のその急逝とともに反動の時代が訪れ、土地貴族に対する譲歩が行われて、改革は停滞する。オーストリア及びその支配地で、農民の解放が実現するのは、1848年の三月革命を待たなければならなかった。
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