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マリア=テレジア

18世紀中ごろのオーストリア大公妃。ハプスブルク家の家領を継承し、プロイセンのフリードリヒ2世とオーストリア継承戦争を戦う。敗れてシュレジェンを割譲したが、次に外交革命によってフランスと結び、再び七年戦争で戦う。多民族国家であるオーストリア帝国の中央集権化を図るなど、事実上の女帝としてオーストリアを統治した。

 オーストリア=ハプスブルク家の女性君主。父カール6世の定めたプラグマティッシェ=ザンクティオンハプスブルク家の家督継承法)によってハプスブルク家の家督を相続し、1740年オーストリア大公妃兼ボヘミア王、ハンガリー王に即位した(在位1740~80年)。 → ハプスブルク帝国  オーストリア帝国

オーストリア継承戦争


若き日のマリア=テレジア
オーストリア国立美術史美術館蔵
 1740年、マリア=テレジアがハプスブルク家家督を相続し、オーストリア大公妃などに即位すると、プロイセン王国の国王フリードリヒ2世はその相続の条件としてシュレジェンの割譲を要求、さらにバイエルン公カール=アルブレヒトは神聖ローマ皇帝位を望み、フランスのブルボン朝ルイ15世も同調、オーストリアに対し開戦した。これがオーストリア継承戦争である。開戦するとプロイセン軍がオーストリア領内に進撃し、シュレジェンを占領した。オーストリアに対しては、フランスと対立していたイギリスが支援したが、経済的援助にとどまり、軍隊の派遣はなかった。
 窮地に立ったマリア=テレジアは乳飲み子(後のヨーゼフ2世)を抱いて(これは伝説らしい)1741年9月11日ハンガリーに赴き、ハンガリー国王として国会に登壇し、黒い喪服に身を包んでハンガリー貴族たちに協力して抵抗することを呼びかけた。それによってプロイセンとの戦いを互角で乗り切り、シュレジェンは失ったものの他の家督の相続は認められた。
 また、神聖ローマ帝国皇帝の地位は、1742年にバイエルン公(ヴィッテルスバハ家)カール7世が選出されていたが、1745年には夫のロートリンゲン家のフランツ1世が即位した。オーストリア継承戦争は、1748年アーヘンの和約で講和となったが、シュレジェンの奪回はならなかった。
注意 マリア=テレジアは女帝ではない 人名辞典などには、マリア=テレジアを女帝とし、「神聖ローマ皇帝」に在位したとしているものも見かけるが、これは厳密には正しくない。彼女はオーストリア大公(形式的には大公妃)であり、ハンガリー国王とベーメン国王を兼ねていたというのが正しい。また、その期間は1740年から1780年の40年にわたる長期間であったが、その前半の1740年~65年は夫のフランツ1世(ロートリンゲン公、後にトスカナ大公)、後半の65年から80年は息子のヨーゼフ2世がその共同統治者であった。彼女自身は女性であったので神聖ローマ皇帝にはなれず、夫のフランツ1世が皇帝となっている(1745年から65年まで)。フランツ1世の死後はヨーゼフ2世が皇帝となった(神聖ローマ皇帝は形式的には依然として選帝侯による選挙だった)。したがってマリア=テレジアは形式的には帝妃、そして帝母という立場に過ぎなかった。しかし、夫フランツは政治にあまり関心が無く、子のヨーゼフには政治をまかせきれないと考えていたので、実際に帝国を切り盛りしたのは彼女であった。つまり、実質的には神聖ローマ皇帝であったと言うことは出来る。

外交革命

 敗戦後、「シュレジェン泥棒」プロイセンのフリードリヒ2世への復讐と、シュレジェンの奪回を目指したマリア=テレジアは、オーストリアの軍制、政治機構の改革に乗り出し、宰相カウニッツの補佐によって国力の回復に努めた。外交ではフランスのブルボン家と結び、さらにロシアとも関係を強めててプロイセンを孤立させることに成功した。それまで長期にわたって敵対していたフランスと手を結んだことは、当時非常な驚きをもって迎えられ、外交革命と称された。それを画策したのがオーストリアの宰相カウニッツとフランスのルイ15世の寵愛したポンパドゥール夫人であった。

七年戦争

 包囲網の成立を知ったプロイセンのフリードリヒ2世は愕然とし、1756年、包囲網を打破すべく先制攻撃をしかけ七年戦争(1756~63年)が始まった。オーストリア軍は今回は十分な準備を終え、しかもフランス軍、ロシア軍の支援を受け優位に戦った。プロイセンを支援したのはイギリスであったが、イギリスはアメリカ大陸とインドにおいてフランスとの激しい植民地戦争を展開していたので、ヨーロッパ大陸に関与する余裕が無かった。こうしてフリードリヒ2世は絶体絶命の危機に陥ったが、ロシアの女帝エリザヴェータが死去、後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世びいきだったため、対プロイセン戦線から脱落し、フリードリヒ2世は息を吹き返した。また、イギリスとフランスのフレンチ=インディアン戦争でもイギリス優位になったことを受けて、1763年2月15日に講和条約のフベルトゥスブルク条約が締結され、プロイセンのシュレジェン領有は確定した。

ヨーゼフ2世との共同統治

 1765年に夫のフランツ1世が死去して以降は息子のヨーゼフ2世が皇帝となり、マリア=テレジアの共同統治者としての地位は続いた。マリア=テレジアは息子ヨーゼフ2世を愛していたが、その開明的な姿勢には不安なものを感じ、実権を与えなかった。ヨーゼフ2世はヴォルテールやルソーなどの啓蒙思想に関心を持ち、フリードリヒ2世に近い考えをもっていたからであった。ヨーゼフ2世がフリードリヒ2世に持ちかけられたポーランド分割に加わろうとしたときは、頑強に反対した。しかし、最終的には折れて、ヨーゼフの判断に従った。また、婚姻政策にはその後も熱心で、娘のマリ=アントワネットをフランスの王子ルイ(後のルイ16世)の妃に送ってフランスとの関係を維持しようとした。

Episode マリア=テレジアの捨て身の訴え

 オーストリア継承戦争ではフランスの軍事介入でマリア=テレジアは絶体絶命の窮地に立たされた。彼女が最後に望みを託したのはハンガリーの貴族であった。ハンガリー貴族はオーストリアの支配から脱する好機と考え、反オーストリア蜂起を企てるのではないかと危惧されていたが、彼女はあえて逆の行動をとった。1741年9月11日、彼女は現在のブラチスラヴァ(当時はハンガリーの首都プレスブルク)で開会中のハンガリー議会に、乳飲み子を長男ヨーゼフ(次の皇帝)をかかえて劇的に登場し、誇り高いハンガリー貴族に涙ながら支援を訴えた。それに感動した議員から「我らが女王、王冠、祖国に血と命を」の叫びが起こり、6万の出兵その他の支援を取り付けたのである。彼女もハンガリー国法の遵守、貴族の免税特権、行政的自治の保証などを約束した。<『ドナウ・ヨーロッパ史』新版世界各国史 山川出版社>
 わずか27歳の若妻マリア=テレジアが乳飲み子ヨーゼフを抱いてハンガリー議会に乗り込んだ、と言うのは有名な話。演説は事実で確かだが、ヨーゼフを抱いて演説したと言うのは伝説らしい。この時彼女がハンガリーに連れていったのは三歳の皇女マリア=アンナで、ヨーゼフはウィーンにおいてきた。ハンガリー滞在は議会を説得するのに時間がかかり、6月から9月に及んだが、その間何度かヨーゼフの様子を見にウィーンに戻っている。ヨーゼフを抱いていなかったとしても、美しく若い女王の訴えが、ハンガリー貴族と議会を動かしたことは事実だ。「彼女は、腕にヨーゼフを抱いた絵を、おそらく数枚、描かせた。」<倉田稔『ハプスブルク歴史物語』1994 NHKブックス p.38-40>
あるいは幼子を抱くマリア、というイメージを利用しようとしたのかも知れない。これは邪推。

Episode マリア=テレジアは何語で演説した?

1741年6月ハンガリーの議会で感動的な演説をしてハンガリー貴族たちの心を動かしたと言われているが、この演説は何語で行われたのだろうか。マリア=テレジアの母語はドイツ語だが、ハンガリー王として演説したのだからハンガリー語だったのだろうか。はたまた当時の国際的な外交で使われていたイタリア語だろうか。ブルボン家とは対立しているのでオーストリアではフランス語は使われない。答えはラテン語であった。
(引用)エッと思う人がいるかもしれない。しかしハンガリーではラテン語が公用語で、公文書がラテン語で書かれたのはもとより、議会演説もラテン語で行われていた。当時ラテン語は古典の共用語として広く学ばれており、また国際的な学術用語でもあって、大学ではまだ講義も多くはラテン語でおこなわれていた。ただ18世紀までに国の公用語がラテン語というのはあまり他に例がないが、ハンガリーは複雑な歴史と民族(言語)構成からして、国の共通公用語としてラテン語が定着していた。それが「国の言葉」であった。もちろん貴族層にはドイツ語が出来るものも多くなっていたが、しかしそうであってもこの外来の王朝、ましてや女性支配者を白い眼で見ている貴族は少なくなかった。こういう貴族にとって、マリア・テレジアが女王に即位することは認めたにしても、窮地にある彼女をどれだけ支援するか、それはあくまで条件次第、そういう状況で彼女が議会でドイツ語の演説などしたら、逆効果もいいところである。しかし彼女は、ハンガリー(マジャール)語ができなかったということもあるが、堂々とラテン語で演説をした。彼女の語学力についてはいろいろな評もあるが、ハンガリー貴族を熱狂させ、「われらの血と命を!」と叫ばせたあの9月11日の有名な演説が見事なラテン語だったことは、ハンガリーの歴史家が「本当に感動的だったラテン語の演説」と書いているから確かである。若いけれど、才知も度胸もある女傑だった。<坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』2012 刀水書房 p.134>

Episode ハプスブルク家の多産


マリア=テレジアの家族
オーストリア国立美術史美術館蔵
 マリア=テレジアは1717年5月13日の生まれ、若いころは健康で美しかった。今に残る若き日の彼女の肖像からもその美貌はつたわってくる(上掲写真)。結婚適齢期になると、さまざまな縁談が出て、一時はプロイセンの王子フリードリヒとの話も進んだ。彼はマリア=テレジアより5歳上、本人は彼女との結婚に相当乗り気だったらしい。しかしある事情から縁談は破綻した。この二人は後には憎しみ合い激しく戦う間柄になる。実はマリア=テレジアは6歳の時にウィーンの宮廷で見初めた貴族の若者がいた。それがロートリンゲンから来たフランツで9歳年上だった。結局二人の恋が実り、1736年2月に結婚した。すぐに子どもが出来たが女の子ばかり、3人続き、ようやく待望の男子ヨーゼフが生まれた。その後も、なんと彼女は56年までの20年間に16人の子供を産んだ。つまり妊娠していなかったことがなかったわけで、しかもその間に戦争などの難局が相次いだのだ。ハプスブルク家は多産の家系で有名だが、女王でありながらこれだけの多産なのは驚きだ。夫フランツは快活な人だったが政治には関心はなく、それは妻にまかせ、夫としての仕事だけに専念したわけだ。マリア=テレジアもこのフランツを深く愛し、65年に彼が死ぬとその後の生涯を喪服で過ごしたという。<倉田稔『ハプスブルク歴史物語』1994 NHKブックス/江村洋『ハプスブルク家の女たち』1993 講談社現代新書>
 上の図は、マリア=テレジアとその家族の肖像。右の座っているのがマリア=テレジア。左端が夫で神聖ローマ皇帝フランツ1世。間に立つ赤い服の若い王子がヨーゼフ。このころの彼女はでっぷりと太っている。ウィーンの王宮には籠を人力で上げ下げするエレベーターがあったが、「伝説によると200キロの体重があったマリア=テレジアは、体の重みで綱が切れて落っこちた」そうだ。<倉田稔『ハプスブルク歴史物語』1994 NHKブックスp.50>若いころの彼女と見比べるのも一興。