ヨーゼフ2世
神聖ローマ帝国(オーストリア)の皇帝(在位1765~90年)。マリア=テレジアの子。啓蒙専制君主として宗教寛容令や農奴制の廃止などの改革に取り組んだが、上からの改革にとどまった。
オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位1765~90年)。同時にオーストリア大公として母マリア=テレジアと共同統治を行った。二人ははじめはうまくいっていたが、ヨーゼフ2世が次第に啓蒙思想の影響を受け、改革路線を強めていくと、啓蒙主義を嫌ったマリア=テレジアとの意見の違いが目立ち始めた。ヨーゼフ2世は啓蒙専制主義として、プロイセン王国のフリードリヒ2世に見習おうとしたが、マリア=テレジアはフリードリヒ2世を強く嫌っていたので、彼に似てきたわが子を次第に嫌うようになった。1780年、マリア=テレジアが死んだため、ようやくヨーゼフ2世は単独で親政を開始した。そして翌1781年、宗教寛容令・農奴解放令に代表される、積極的な近代化政策を打ち出していく。 → ハプスブルク帝国 オーストリア帝国
しかし、決定的な違いは、これらが「上からの」改革であり、抵抗勢力である貴族層の排除という政治変革を伴っていなかったため、ヨーゼフ2世の死後はほとんどが反故とされてしまったことである。また、オーストリア支配下のハンガリーやベーメン(チェコ)、南ネーデルラント(ベルギー)などにたいしても画一的に強制しようとしたものであったので、特に言語の画一化などは強く反発されて、成功しなった。オーストリアは多民族国家であることがなによりもその統一支配を困難なものにしていた。
また、オーストリア支配下のハンガリーやネーデルラント南部(ベルギー)での反乱にも悩まされるうち、1790年に死去した。継嗣がいなかったので、弟のレオポルト2世が帝位を継承した。妹でフランス王に嫁いだマリ=アントワネットは、1793年断頭台にかけられることになる。
ヨーゼフ2世の上からの改革の内容。
ヨーゼフ2世が行った近代化政策としては次のようなものが重要である。- 宗教寛容令 非カトリック教徒の信仰の自由を認め、教会領の没収と国有化をはかった。
- 農奴解放令 農民の人格的自由を認め、自作農化をはかる。
- 司法制度、警察制度などの整備と中央集権化。
- 出版、検閲制度の緩和 官庁と教会による検閲を廃止した。
- 死刑、拷問の廃止。
- 貧民救済制度、慈善施設の建設、学校、病院、共同墓地の建設など。
- 言語統一令 ネーデルラント、北イタリアを除き、ハプスブルク帝国内の公用語はドイツ語に統一する。
- 商工業の保護。
改革の狙いと限界
これらの改革は、「ヨーゼフ主義」と言われることもあり、ヨーゼフ2世の性格から来る人道的施策である一面と、ハプスブルク帝国を近代的な主権国家としての合理的、統一的な国家機構を確立しようという意図があった。とくに、宗教寛容令と農奴解放令はこれらの改革の最も重要な、国家と社会の根幹を変革させるものであった。ヨーゼフ2世の改革が1789年に始まるフランス革命での教会領没収や封建的特権廃止などの「革命」的変革に先んじていたことは注目して良い。しかし、決定的な違いは、これらが「上からの」改革であり、抵抗勢力である貴族層の排除という政治変革を伴っていなかったため、ヨーゼフ2世の死後はほとんどが反故とされてしまったことである。また、オーストリア支配下のハンガリーやベーメン(チェコ)、南ネーデルラント(ベルギー)などにたいしても画一的に強制しようとしたものであったので、特に言語の画一化などは強く反発されて、成功しなった。オーストリアは多民族国家であることがなによりもその統一支配を困難なものにしていた。
ポーランド分割に加わる
外交面では、母のマリア=テレジアのような国家存亡の危機に直面することはなく、七年戦争の戦後の五大国体制(オーストリア・プロイセン、ロシア、フランス、イギリス)の一角としての地位を占めた。その中で、1772年にはロシアのエカチェリーナ2世、プロイセンのフリードリヒ2世とともに第1回ポーランド分割に加わり、ガリツィア地方の一部を獲得した。またヨーゼフ2世はバイエルンを併合しようという野心を持っていたが、これはプロイセンによって阻止された。こうして同じドイツ人の国家プロイセンは依然としてオーストリアにとって大きな脅威であった。そのため、ロシアとの提携を強め、ロシア=トルコ戦争(1787~92年)ではロシアを支援した。また、オーストリア支配下のハンガリーやネーデルラント南部(ベルギー)での反乱にも悩まされるうち、1790年に死去した。継嗣がいなかったので、弟のレオポルト2世が帝位を継承した。妹でフランス王に嫁いだマリ=アントワネットは、1793年断頭台にかけられることになる。
Episode 皇帝の棺桶再利用命令
ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として当時としては進歩的な政策、宗教寛容令や農奴制の廃止、拷問の廃止、一般総合病院の開設などを実施したが、あまりに進歩的、そして細かかったので反発も大きかった。(引用)あまりに進歩的すぎて反発が大きかったのは、葬儀や埋葬に関する改革だった。葬儀が華美にならないようロウソクの本数まで細かく制限したり、棺をそのまま埋葬することを禁止し、遺体のみを埋め棺は再利用させた。個別の墓をつくることは許されず、共同墓穴に埋葬させるようにした。そこでモーツァルトも共同墓穴に埋葬されている。1791年12月、降りしきる雨の中、埋葬に参列する人もなくひっそりと葬られたモーツァルトの遺骨は、そのため特定できなくなってしまった。そしてモーツァルトの妻コンスタンツェは悪妻だとの謗りをうけることになるのだが、こうした埋葬は皇帝の命ずるやりかただったにすぎない。<河野純一『ハプスブルク三都物語 ウィーン、プラハ、ブタペスト』2009 中公新書 p.43-44>さすがに棺の再利用には反発が強かったのでその後取り消されたが、今でもウィーンの人は立派な葬式をあげることでヨーゼフ2世の改革を受けいれなかったことをしめしているようだ。しかし、ヨーゼフ2世が市内の教会墓地を廃止させ、郊外に新たな共同墓地を建設したことは、墓地を教会付属ではなく公共のものととらえた大きな転換だった。