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キャラコ論争/キャリコ論争

17~18世紀初め、イギリスの毛織物業者がインド産綿布(キャラコ)を排除しようとして起こった論争。

 イギリスは毛織物工業が国内産業の中心であったが、17世紀になるとイギリス東インド会社からもたらされたインド産綿布はキャラコと言われ、その吸湿性の良さ、肌触り、染色が容易なこと、などからイギリス社会に急速に普及した(はじめはカーテンやテーブルクロスに、麻布(リンネル)の代用として用いられていた)。1690年頃からインド産の安価なキャラコの輸入によって打撃を受けた毛織物業者がその輸入を禁止するように運動を始めた。このころから1720年頃まで続いた、東インド会社のキャラコ輸入を認めるかどうかの毛織物業者と東インド会社の激しい論争を「キャラコ論争」といい、両者は多数のパンフレットを発行してコーヒーハウスにばらまき、国民的な議論が巻き起こった。重商主義者は国内産業の保護の立場からキャラコ輸入を禁止することを主張し、弁護論者は安価なキャラコの輸入によってイギリス製品全体も価格が下がり、競争力をつけることになると主張した。
キャラコ輸入禁止法 毛織物業者の運動が実り、1700年にはキャラコ輸入禁止法、さらに1720年にはキャラコ使用禁止法が制定された。インド産綿布の輸入ができなくなったため、東インド会社の主力輸入品は、中国産のに移っていくこととなる。
 しかし、綿織物のすぐれた着心地を知ってしまった民衆の中に出来上がった需要は、むしろ強くなり、それに応えるようにイギリス国内に綿工業が勃興するのを押しとどめることはできなかった。イギリス各地に、インドから綿花を輸入して、綿織物を製造する工場が作られ、膨らむ需要に追いつくために技術革新が進んだ。それが1730年代に始まるイギリスの産業革命であった。機械化された工場で製造された綿織物は、今度は逆にインドに輸出されるようになり、インド綿布の家内工業を破壊していくこととなる。

Episode キャラコを着ている者を裸に!

 イギリスで1700年に制定されたキャラコ輸入禁止法は染色されたものが対象だったので、対象外の白地キャラコの輸入は続き、染色・捺染業がかえって栄えることとなった。そのため毛織物業や絹織物業には失業者が増大した。業を煮やした織布工は1719年6月、ロンドンに押し寄せ、町でキャラコを着ている人を襲い、「シャコの羽根をむしるように」はぎ取って裸にするとか、家の中に押し入ってキャラコを摘発するなどの実力行使にでた。そのため1720年には「キャラコ使用禁止法」が制定され、キャラコの使用そのものが禁止されることになったが、その法にも木綿と麻、毛の混紡や藍色染めのキャリコは例外とされたので、綿糸、綿布の輸入は減少しなかった。東インド会社が議会に手を回していたわけだ。結局イギリスの毛織物、絹織物は18世紀には衰退し、かわって綿織物業が勃興して産業革命の展開となる。<浅田実『東インド会社』講談社現代新書 1989 p.50-60> 
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浅田実
『東インド会社』
1989 講談社現代新書