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コーヒーハウス

17~18世紀、イギリスで流行したコーヒー店。多くの人が集まる情報交換の場となり、そこから新聞などのジャーナリズムが発展し、株式取引や郵便制度も起こった。

コーヒーハウス

18世紀 ロンドンのコーヒーハウス
2006年 センターテストより

 16世紀ごろからヨーロッパにも知られるようになった、アラビア半島先端イエメン産のモカから積み出されるコーヒーはイギリスでも新奇な飲み物として広がった。ロンドンにコーヒーハウスが登場したのは1652年であった。レヴァント商人のダニエル・エドワーズがトルコから帰国する際に連れてきたシチリア出身の召使いパスカ・ロゼにコーヒーを出す店を開かせたのが最初という。その後ロンドンのコーヒーハウスは数を増やし、1683年には3000、1714年には約8000に達した。コーヒーハウスではコーヒーとともに砂糖が消費され、さらに付随してタバコもさかんに吸引された。これらコーヒー・砂糖・タバコはいずれも三角貿易によって新大陸からもたらされたものであった。
 コーヒーハウスにはロンドンの市民たちが集まってきて、世界中の植民地から集まる情報の交換、そして情報の発信地となり、新聞もそこに置かれて人々に回覧された。さらにコーヒーハウスを利用して手紙を交換する郵便の役割や、株式取引、保険などの役割も果たした。1688年頃始まるロイズ・コーヒーハウスが有名である。さらにピューリタン革命から王政復古期にかけて、政治議論が戦わされ、「世論」が形成される場となった。王政復古期には閉鎖令が出されたが、税を払うことで存続し、コーヒーへの課税は政府の収入にもなった。しかし、18世紀後半になると、コーヒーハウスに代わって各種のクラブが誕生し、また人々の嗜好もに移り、イギリスのコーヒーハウスは急速に衰退した。<小林章夫『コーヒー・ハウス』2000 講談社学術文庫/臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』1992 中公新書 などによる>

コーヒーハウスの図

 右上は当時のロンドンのコーヒーハウスである。現代の喫茶店と異なり、個別の客席ではなく、まん中のテーブルを囲んで議論している様子がわかる。つまり、社交場であった。左手にコーヒーを煎れている人物と給仕らしい人物が描かれている。しかし、現代の喫茶店と決定的な違いはほかにある。それは何でしょう?答えはページの最後に。

ロンドンのコーヒーハウス

 イギリス最初のコーヒーハウスは1650年(チャールズ1世が処刑された翌年。ピューリタン革命の最盛期)にユダヤ人のジェイコブズという人がオクスフォードに開いたとされている。彼がどういう人物かよくわかっていないが、トルコ人からもらったコーヒーの実を客に飲ませて評判となり、はじめは飲酒の害を和らげる薬効があるとして飲まれたらしい。ロンドン最初のコーヒーハウスは、1652年、商人エドワーズのギリシア人の召使いパスカ・ロゼという男がロンドン塔の西北、セント・マイケル小路に開いた店とされているが、この店は間もなく閉店し、1656年にフリート街に床屋のジェームズ・ファーという男がレインボー・コーヒーハウスが開店、大いに繁昌した。もっともロンドン最初のコーヒーハウスを開いたのはボウマンという男だという異説もある。1660年、王政復古となってチャールズ2世が亡命先のオランダから帰国すると、いよいよコーヒーハウスが盛んに作られるようになり、18世紀初頭にはロンドン市内で3000軒の店が営業していたというほどになる。<小林章夫『コーヒー・ハウス』2000 講談社学術文庫 p.26,36,44 初版は1984>

ジャーナリズムの発生

 コーヒーハウスはイギリスの新聞・雑誌などのジャーナリズムの発生と密接な関係があった。コーヒーハウスがイギリス人の生活文化にもたらした影響の中で最も重要なことである。印刷術の発達によって新聞の刊行が可能となったが、当初は宅配や駅売りではなく、コーヒーハウスに置かれて何人もの人が閲覧した。コーヒーハウスは一種の情報センターの役割を果たしていた。
(引用)コーヒー・ハウスを支えた疑似ジェントルマン、中間市民層の勃興は、すなわち文字を読める階層の拡大を意味したし、もっと直接的にいっても、日刊新聞などの芽がふいたのはまさにタバコとコーヒーの香りのまっただなかにおいてであったのだ。コーヒー・ハウスの顧客たちの、海運ニュース、内外の政治情報への渇望が、より純粋に知的な関心とあいまって、日刊紙をふくむ定期刊行物の成長を不可避にした。<角山栄編『産業革命と民衆』1992 生活の世界歴史10 河出書房新社>

コーヒーハウスでの取引

 ロンドンにはエリザベス女王時代の1571年に開かれた取引所があったが、1666年のロンドン大火で焼失した後、再建された。しかし商人たちは取引所を使わずに、近くのタバーン(居酒屋)やコーヒーハウスなどで商売の話をし、取引をしていた。コーンヒルのエクスチェンジ小路にあったギャラウェイ・コーヒーハウスでは船の売買の取引が「ろうそく競売」といわれる、ろうそくの中にピンを入れておき、廻りのロウが溶けてピンが倒れる直前に値をつけたものが落札するという、いささか変わった方法で行われていた。その他、砂糖、コーヒー、材木、スパイス、茶などの取引も行われていた。
 同じくエクスチェンジ小路にあったジョナサン・コーヒーハウスでは、株取引が行われていた。特に1711年に創立された南海会社を契機として起こった「南海泡沫事件」の大騒動ではすさまじい数の人間で溢れんばかりだったが、1720年8月に株価が暴落し、ジョナサンの店も誰も来ない空っぽになったという。<小林章夫『同上書』p.185-188>

保険会社ロイズの始まり

 現在も世界最大の保険会社と言われるロイズは、そもそも17世紀のイギリスでできた小さなコーヒーハウスから始まった。ロイズ・コーヒーハウスは商取引の場と新聞や広告などから情報を得ると同時に、逆にジャーナリズムに情報をもたらす場、この二つの機能を兼ねていた。17世紀までは今日のような保険会社は存在せず、金融業者や貿易業者が個人で保険を引き受けていたが、船舶の荷物など大きなリスクを伴う保険は引き受け手を探すのが困難だった。1688(名誉革命の年)ごろつくられたロイズ・コーヒ-ハウスは、1692年ごろロンバード街に移り、船舶情報を掲載した『ロイズ・ニュース』を発行し客に提供し、海上保険を取り扱うようになった。南海泡沫事件後の1720年に勅許保険会社が設立され他の保険会社が禁止されると、競争相手のなくなった個人の保険業者はロイズを拠点に保険業務に精を出すようになり、特に海上保険の分野でますます繁栄した。その後は経営権をめぐる分裂や賭博、あるいは投機的な手法に対する批判などもあって困難が続いたが、1771年には新ロイズが発足、コーヒーハウスとしてのロイズは終わりを告げた。<小林章夫『同上書』p.189-199>

郵便とコーヒーハウス

 イギリスでは官営の郵便制度がかなり早い時期から整備されていたが、17世紀の後半においてもまだ戸別配達制度は確立しておらず、宿屋やコーヒーハウスに留め置きしてそれを取りに行くというかたちがとられていた。1680年にはウィリアム・ドックラが一律1ペニーで戸別配達をするペニー郵便を創設したが、官営の郵便制度を有していた政府によって83年には廃業させられてしまった。こうした中でコーヒーハウスは郵便の集配所としての機能も果たし、中でも外国向け船舶郵便はコーヒーハウスが郵便物を受付、船長が出航前に廻って郵便物を集めて出港していた。コーヒーハウスは私設外国郵便局としても機能していた。

コーヒーハウスの果たした役割

 コーヒーハウスは、17世紀の中ごろのピューリタン革命期に初めて店が開かれ、王政復古、名誉革命を経て18世紀の半ばに至るまで、イギリス社会に大きな位置を占めてきた。その果たした役割は、極めて多岐にわたるものであった。<以下、小林章夫『コーヒー・ハウス』2000 講談社学術文庫 p.262~267 の要約>
  • 政治との関わり 「コーヒーは政治家を賢明にする」 ピューリタン革命の余波が残っている17世紀後半、コーヒーハウスはまず政論の場として大きな役割を果たした。政治を論じ、権力を批判するという言論の自由が最も大きな魅力となった。18世紀の詩人ポープは「コーヒーは政治家を賢明にする」といっている<同書 p.121>。一方、陰謀の温床となる可能性があったので当局はスパイを送り込み、コーヒーハウスの動向に目を光らせた。コーヒーハウスがあからさまな弾圧を受けたのはチャールズ2世の布告以外はほとんどないが、裏の部分では様々な手段が取られた。しかし、18世紀に立憲君主政の安定期に入るとその政論の場としての「毒」は次第に解消していった。
  • 経済面での役割 保険業も生まれる 17世紀中ごろから力を蓄えてきた新興ブルジョワジーの経済活動にとって、コーヒーハウスはビジネスに関わる情報センターの意味があった。宮廷や議会に出入りする貴族などから情報を得、商人同士で情報交換をした。取引所近くのコーヒーハウスではロイズに代表されるような保険業が生まれた。コーヒーハウスは近世イギリスの経済活動を支えた一つの基盤でもあった。
  • ジャーナリズムの成立 新聞・雑誌の発行 市民(成年男子)にとって政治と経済の動向に関わらざるを得ない時代となっていた。それらの情報を直接仕入れることのできる場がコーヒーハウスだった。情報をまとめて印刷・発効するという形で新聞・雑誌が続々と発行され、それがコーヒーハウスの店内に置かれ無料で読めた。また新聞を発行するジャーナリストはコーヒーハウスで情報を得た。
  • 人間のるつぼ的様相 貴族から泥棒まで 誰でも金さえ払えば入って自由に談話をかわすことのできた(少なくとも18世紀までは)コーヒーハウスの性格から、店内には貴顕紳士から、イカサマ師、泥棒の類まで種々雑多な人間が集まった。政治論議の一方でファッションが話題になり、文学論が戦わされ、商取引が行われ、さまざまな情報が行き交った。時代の社会風俗がたっぷり盛り込まれていた。
  • 文学・文化との関わり コーヒーハウス文化 コーヒーハウスに集まった文人は詩や劇を批評しあい、議論しあいながら構想を練り上げた。17世紀末文学の大立物であったドライデン、18世紀のジャーナリズム文学など、「コーヒーハウス文化の時代」が開花した。

コーヒーハウスの図の設問の答え。

 お客は男性のみであることです。女性はコーヒーハウスに入ることはできず、従って恋人とのデートはここではできませんでした。コーヒーハウスで議論された政治や経済、さらに文学などの芸術は、このころはまだ男性のみの世界の話題だったのでしょう。<角山栄編『産業革命と民衆』1992 生活の世界歴史10 河出書房新社>
 なお、2006年 センター本試 世界史Bでこの図が使われています。
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書籍案内

小林章夫
『コーヒー・ハウス』
2000 講談社学術文庫

コーヒー・ハウスの諸相を知るには最も手頃。ただし、コーヒーの煎り方やお店の経営方法を説明した本ではなく、歴史書なので念のために注意しておきます。


臼井隆一郎
『コーヒーが廻り世界史が廻る』
1992 中公新書

角山栄/村岡健次/川北稔
『産業革命と民衆』
生活の世界歴史10
1992  河出書房新社

初版は1984でやや古いが、17世紀から産業革命期までのイギリス社会を見事に要約している。Kindleでも読める。