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綿工業/木綿工業

綿花を原料とした繊維工業。イギリス産業革命の初期の主要産業となった。綿糸を紡ぐ紡績、糸を織り上げる織布の二工程がある。技術革新は1730年代に紡績と織布の相乗効果で始まり、1760~80年代に急速に進んだ。

 繊維産業には、毛織物・絹織物・麻織物・綿織物がある。そのうち、綿花を原料とする綿織物は古代インドに始まり、十字軍時代にヨーロッパにも伝えられたが、そのころは麻や羊毛との混紡が主で質は良くなく、18世紀までイギリスで最も盛んだったのは毛織物工業であった。17世紀以来、質の良いインド綿布が東インド会社によってもたらされるようになると毛織物にかわって需要が急増した。こうして18世紀後半に綿織物=綿工業からイギリスの産業革命が始まることとなった。

綿工業の二工程 紡績と織布の相乗効果

 綿工業(木綿工業)には、紡績=綿糸を紡ぐ工程(紡糸)と、織布=綿糸で布を織る工程とがある。織布機械(織機)が改良されると、綿糸が不足し、より大量に強い糸が必要となって紡績機の改良をうながし、紡績機の改良で造られた糸を大量に織る必要から織機の改良がなされる、というように、その両者は相乗効果で発達していく。まず1733年ごろ、織布のケイの飛び梭から始まり、1760年代にハーグリーヴズアークライトの紡績機の改良を呼び起こし、さらにクロンプトンのミュール紡績機によって機械に強い丈夫な糸が作られるようになり、カートライトの力織機で蒸気力を利用して織布能力が飛躍的に向上する、という経過であった。
(引用)どんな小学生でも知っているように、綿業の機械化の性格を決定した技術的な問題は、紡糸と織布との能率の不均衡と言うことであった。紡糸車は手織機よりも(とくに手織機が1730年代に発明され1760年代に普及した「飛び梭」によってスピードアップしてからは)はるかに生産性の低い装置であり織布工たちに迅速に供給することはできなかった。三つのよく知られた発明がバランスをひっくりかえした。1760年代の「ジェニー紡績機」は家内紡績工ひとりで同時に数本の糸を紡ぐことを可能にし、1768年の「水力紡績機」は巻軸と紡錘との結合による紡績という独創的な考え方を用い、この二つをあわせた1780年代の「ミュール」は、蒸気機関がこれにたいして適用されるようになった。このあとの二つの革新は工場生産を暗に含んでいる。産業革命の面工場は本質的に紡績工場であった(そして紡績の準備のための梳綿施設であった)。<ホブズボーム/浜林正夫他訳『産業と帝国』1984 未来社 p.69>
マンチェスターの繁栄 イギリス綿工業の中心地として栄えたのがランカシャー地方マンチェスターだった。イギリス綿工業で生産された機械製綿布はアフリカに運ばれて黒人奴隷貿易の交易品となり、さらにはインドに運ばれてインドの綿織物家内工業を破壊して、植民地支配を強めることとなった。そのことをイギリス現代の歴史家ホブズボームは、「木綿工業は、グライダーのように、それに結びつけられた植民地貿易の引きづなによって、飛び立った」と表現している。<ホブズボーム『市民革命と産業革命』安川悦子/水田洋訳 岩波書店 p.53>  → イギリス産業革命のインドへの影響

綿工業から産業革命が始まった背景

 イギリスは16世紀から毛織物工業を発達させ、17世紀の危機を乗り切った後に海洋帝国に発展した基盤はそこにあった。重商主義のもとで東インド会社が特許会社であったように、毛織物生産も特権的な大商人たちが問屋制によって生産し、様々なギルドとしての規制が加えられていた。そのため自由な競争が無く、技術革新、機械化の進度は遅かった。それに対して、綿工業(紡績と織布)は初めは輸入していたインド綿布を、独自に生産しようとして始まった新しい工業であった。そこには特権商人や同業者組合のギルド的規制は働かなかったため、自由な競争が行われ、機械が導入されて困る熟練した職人が存在しないために、機械化などの技術革新が進んだ面があった。

イギリスの木綿工業と奴隷貿易

 イギリスの木綿工業の繁栄に、18世紀にイギリスが行った大西洋の三角貿易における黒人奴隷貿易による富の蓄積があったことは忘れることはできない。
(引用)植民地貿易は木綿工業をつくりだし、それをずっと育成してきた。18世紀には、木綿工業は、主要な植民地むけ貿易港の、すなわち、ブリストル、グラスゴウ、だがとくに、奴隷貿易の大中心地であるリヴァプールの後背地で発展した。この非人間的ではあるが急速に発展する商業のあらゆる局面が、それに刺激を与えた。実際、・・・奴隷制と木綿とは、手をたずさえてすすんでいった。アフリカの奴隷は、すくなくとも一部は、インドの木綿製品で購入された。だがこれらの木綿の供給が、インドのなかや周辺で起きた戦争或いは反乱で、中断された場合には、ランカシャーが、そこにとびこむことができた。奴隷がうけいれられた西インド諸島の植民農園は、イギリスの産業に、大量の原綿を提供したし、そのかわりに、植民地農園主たちは、相当な量の、マンチェスター碁盤じま綿布を、買ったのである。・・・ランカシャーは、のちに、奴隷制にたいする債務を、奴隷制を保持することによって返済することになったのである。というのは、1790年代以後、南部アメリカ合衆国の奴隷制植民農園は、ランカシャーの諸工場に自分たちの原綿を大量に提供したのであるが、その農園はそれらの工場のあくことをしらずに突きすすむ需要によって、拡大、維持されたからである。<ホブズボーム『市民革命と産業革命』安川悦子/水田洋訳 岩波書店 p.52>

イギリス綿工業とアジア

(引用)東インドは、東インド会社に奨励された伝統的な綿製品の輸出国であった。しかし、産業家の既得権益がイギリスでは優勢になったので、東インド商業の利害関係(インド人のそれはいうまでもなく)は、後退させられた。インドは組織的に非産業化され、かわってランカシャー綿製品の一市場となった。1820年には、この準大陸は、千百ヤードしか買いいれなかった。しかし1840年になると、それはすでに1億4千5百万ヤードを買いいれていた。これは、ランカシャーの市場の満足すべき拡大ということだけではなかった。それは、世界史における一つの主要な指標だったのである。というのは、歴史のあけぼの以来ヨーロッパは、東方に売るよりもそこから輸入する方が、いつも多かったからである。なぜなら、オリエントは、ヨーロッパにおくりこんだ香料、絹織物、インド綿布、宝石などの見返りとして、西からはほとんどなにも必要としなかったのである。産業革命の木綿のシャツが、はじめてこの関係を逆転させたのであって、この関係はこれまで、地金輸出と略奪との混合物によって、平衡を保ってきたのである。保守的でひとりよがりの中国人だけがまだ、西洋あるいは西洋の管理する諸経済が提供するものの購入を拒んでいたのであって、それは、1815年と1842年のあいだに、西洋の貿易商人たちが、西洋の軍艦の助けを借りて、インドから東洋に大量をひとまとめに輸出しうる一つの理想的商品、すなわち阿片を発見するまで、そうであった。<ホブズボーム『市民革命と産業革命』安川悦子/水田洋訳 岩波書店 p.54>