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大恐怖

1789年7月にフランス各地の農村で起こった暴動。パリにおけるフランス革命の勃発と同時に、農民が領主館を襲撃するなどの動乱が起こった。

 フランス語でグランド・プール la Grande Peur という。フランス各地の農村は、1788年の秋の凶作以来、食糧不足と物価騰貴によって社会不安がひろがり、浮浪者が増加し、一種の恐怖状態の中にあった。1789年7月14日、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃したとの報せが広まると、農民たちのあいだに貴族が外国人部隊や浮浪者をつかって農民を襲撃するという噂が急速に広まった。恐怖に駆られた農民は武器を取って貴族(封建領主として農園を持っている地方貴族)の屋敷を襲撃し、殺害や略奪などの暴行を行った。

封建的特権の廃止などが実現

 この農民反乱は1789年7月から8月にかけてフランス各地の農村に広がり、革命は全国的な社会変革へのエネルギーの爆発となった。危機感を感じた貴族、ブルジョワジーは妥協をはかることを考え、1789年8月4日に国民議会で封建的特権の廃止の宣言を発した。革命の危機を避けて、多くの貴族が、プロイセンやオーストリアに亡命(エミグレ)した。パリから始まったアンシャン=レジームに対するの民衆蜂起が、全国の農村に及ぶことによって、この動きはフランス革命という大きなうねりとなった。

参考 フランス革命と気候悪化

 フランスでは1788年の春の干魃と夏の雷雨という不順な気候によって、秋の収穫が激減して凶作に見舞われた。その前年の1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)のためにバルト海での貿易がストップして東欧からの穀物輸入ができなくなるという悪条件が重なって食糧不足が深刻となり、物価騰貴が農民を農民を苦しめていた。そのため乞食となって物乞いに歩くものも現れ、社会不安は一気に高まっていた。
(引用)1788年のフランスは多くの政治問題で騒然としていたが、政治にまるで興味のない貧しい人びびとにとって、ただひとつの関心事はパンだった。そして、パンは穀類からできていた。その穀類を十分に確保するためには、豊作を願うか大量輸入するしかなかった。1788年の天候は、もちろん、フランス革命を起こした最大の要因ではない。しかし、穀類やパンの不足や食糧難による苦境は、革命勃発の時期を決定するのに大きな役目をはたしていた。何世代にもわたってつづく慢性的な飢えによって生じたフランスの社会秩序の脆(もろ)さは、1789年夏の歴史的事件の前の暴動を起こす引き金となった。「1789年の大恐怖」はフランス国民の大半を集団ヒステリー状態にさせ、フランス革命を引き起こし、農民を政治の舞台に引きずり出したのである。<ブライアン=フェイガン/東郷えりか他訳『歴史を変えた気候大変動』2009 河出文庫 p.294>
同書に依れば、当時のヨーロッパは、14世紀ごろから19世紀前半まで続いた寒冷期(小氷河期とも言っている)のただ中にあったとしている。それ以前の9から13世紀は中世温暖期とされている。
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