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ダントン

フランス革命のジャコバン派指導者。1792年、8月10日の民衆蜂起を指導して名声を獲得。しかし次第にロベスピエールと対立するようになり、ジロンド派と宥和しようとした右派として排除され、94年に処刑された。

ダントン
George Jacques Danton
(1759-94)
 フランス革命ジャコバン派の一人として活躍し、初めはロベスピエールに協力して恐怖政治を押し進めたが、次第に対立するようになり、1794年に自身がギロチンに架けられた典型的な革命期の人物である。
 ダントンは祖父は農民、父は裁判所の書記という平民出身、2歳で父を失い、11歳で母は再婚するという中で育ち、学校では規則正しい生活を嫌う腕白だったという。21歳でパリに出て弁護士をめざしながら百科全書派の影響を受けて革命運動に投じるようになった。容貌魁偉で行動力にあふれ、たちまち頭角を現し、1790年に自分の住む街区を拠点にコルドリエ=クラブを創設し、ラ=ファイエットやバイイなどの立憲君主派を攻撃した。シャン=ド=マルスの虐殺の時にブリッソと知り合い、ルイ16世の退位を要求する請願文を作成した責任を問われそうになったためにイギリスに渡り、トマス=ペインとも接触した。帰国後はジロンド派に近づいたが、ロランなどがダントンを嫌ったため、次第にロベスピエールに近づき、山岳派(モンターニュ派)として活動するようになった。

「8月10日の男」から反革命へ

 彼の名を一躍有名にしたのは1792年8月10日に起こった8月10日事件であった。国王処刑、共和政樹立へと向かう「第二の革命」であったこの事件はサンキュロットによって起こされたものだが、彼らの蜂起を扇動したのがダントンだった。蜂起の成功はダントンの名声を高め、「8月10日の男」と言われるようになり、議会から異例の抜擢で司法大臣に任命された。9月には外敵が迫るなか、断乎戦へと熱弁を振るった。国民公会議員に当選すると、1793年4月、発足した公安委員会のメンバーとなり、革命裁判所の設立にあたった。公安委員会が実質的な政府となり、ダントンもジャコバン派独裁政権の一翼となったが、そのころから革命の収束をはかって暗躍し、ジロンド派の残存勢力と接触するようになった。ロベスピエールらは、そのようなダントンの動きを危険な宥和主義と批判するようになり、1794年3月30日に捕らえられ、3日間の裁判の結果、1794年4月6日ギロチンにかけられた。34歳。

Episode ダントンの疑惑

 人々はダントンこそ、8月10日の蜂起の成功の殊勲者であるとして、「8月10日の男」と名付けた。ジロンド派は民衆の人気があるダントンを利用して、過激分子を抑えさせるようとして、彼の入閣を支持した。一方では、マリ=アントワネットは「ダントンが蜂起に加わっているかぎり大丈夫です。」と言っており、ダントンが仲間のデグランチーヌを通じて宮廷に300リーブルの金を要求したと言う証拠が残されている。<桑原武夫編『フランス革命の指導者』P.190>
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書籍案内
桑原武夫編
『フランス革命の指導者』
1978年 朝日選書
DVD案内

アンジェイ・ワイダ監督
『ダントン』
主演 J.ドパルデュー
1983年 フランス映画

ポーランドの映画作家ワイダが民主化運動連帯を支持したため国外追放となりフランスで製作した。自ら政治闘争の渦中にあったワイダが、フランス革命でのダントンとロベスピエールの対立を題材に、革命と権力の相克を克明に描いている。