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ラ=ファイエット

フランスの改革派貴族。アメリカ独立戦争に参加し、帰国後フランス革命を指導、人権宣言の起草にあたる。穏健な立憲王政派としてナポレオンに協力したが、帝政・復古王政には反対、七月革命では革命側についた。

アメリカ独立戦争に参加

 ラ=ファイエット La Fayette 1757~1834 はフランスのオーヴェルニュ地方の貴族である侯爵家に生まれ、軍人貴族としてブルボン朝に仕えた。若い貴族ラ=ファイエット侯爵(20歳)は、ブルボン朝フランスの膠着した社会を改革することを夢見ていた。そこに1775年アメリカ独立戦争が始まった。大きな刺激を受けたラ=ファイエットは1777年、国王ルイ16世の渡航禁止にもかかわらず、フランスを離れ、スペインのパサヘス港から出航、アメリカに渡り、ワシントン将軍に合流した。7月31日アメリカ大陸会議によって陸軍少将に任命され、独立戦争の渦中に立った。自費で部下の装備を補充し、兵士と苦楽をともにし、勇敢な将校として戦功をたて、ワシントンに次ぐ人気を得た。ラ=ファイエットの父は彼が2歳の時、七年戦争でイギリスと戦い、戦死したので、それに対する復讐という反英感情があった。

フランス革命での立場

 フランスに戻り、1789年フランス革命が勃発すると、貴族(第二身分)の立場ながら改革を支持し、国民衛兵の司令官に任命された。1789年の人権宣言の起草にあたった。しかし彼は国民議会では穏健な立憲王政派であったので共和派のジャコバン=クラブとは次第に対立するようになった。1791年7月には共和派を支持する民衆の請願を武力弾圧したシャン=ド=マルスの虐殺も行っている。
 なお、ラ=ファイエットは1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃の翌日、革命軍である国民衛兵(ガルド・ナショナル)の指揮官に任命された時、初めて青、白、赤の三色を兵士の徽章として採用した。それが、フランスの三色旗の始まりとされている。

オーストリアの捕虜となる

 1792年4月、ジロンド派内閣が対オーストリア開戦に踏み切ると、ラ=ファイエットは国民軍総司令官として、オーストリア・プロイセンの連合軍と戦う前線に向かったが、各地の敗戦を聞いて進軍中止を命じた。同年の8月10日事件が起き、パリで国王が捕らえられ、王権が停止されたという知らせを聞くと、鎮圧して国王を救出しようとしたが、時すでに遅く、ラ=ファイエットはパリに戻ることをあきらめ、国境を越えてオーストリアに亡命しようとして、投降した。しかしオーストリア軍は「立憲王政」と「共和政」の違いを理解できず、彼を革命の首魁として捕らえ、以後9月18日から5年間牢獄に繋いでしまった。

ナポレオンへの協力と離反、その後

 1799年ナポレオンブリュメール18日のクーデタで権力を握ると、ラ=ファイエットは帰国し、当初は協力した。しかしナポレオンが皇帝に就任すること反対して遠ざかり第一帝政から離れた。さらにナポレオンが没落し、ブルボン朝の復古王政になっても協力せず、フランス革命の理念を象徴する人物として存在し続けた。1830年に復古王政が倒された七月革命が起きると、再び政治の表舞台に復帰し、パリ国民軍司令官となった。しかし、まもなく1834年に77歳で没した。息の長い革命家であった。

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