8月10日事件
1792年8月10日、パリ市民、義勇兵が国王を捕らえ、立法議会を解散させた武力蜂起。オーストリアなどの革命干渉軍との戦いの危機が迫る中、ブルボン王家が敵と内通している疑いが強まり、市民がテュイルリー宮を襲撃、国王を監禁した。立法議会は王権停止を決議して解散、立憲君主政体制はくずれ、代わって9月に成立した国民公会が共和制を宣言した。フランス革命で1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃に次ぐ、画期的な民衆蜂起であった。
フランス革命の進行する中、立法議会で優勢となったジロンド派政府は、1792年4月に対オーストリア開戦に踏み切った。この戦争はフランスとオーストリアとの長期にわたる戦争のはじまりとなった。従来の貴族が指揮官を務めるフランス軍は準備不足もあり、また王妃マリ=アントワネットを通じて情報が敵のオーストリア軍に流れていたりで、各地で敗北となり、さらにプロイセン軍も加わり、フランスの危機が強まった。
7月25日、プロイセン・オーストリア連合軍を率いるブラウンシュヴァイク公は声明を出し、国王に少しでも危害が加えられれば、パリを全面的に破壊する、と脅した。この宣言は国王とマリ=アントワネットの要請を受けてのことであった。憤激したパリ市民は王権停止を議会に要請したが、回答期限の8月9日になっても回答はなかった。8月1日にはすでにブラウンシュヴァイクの率いる干渉軍が国境を越え、パリに迫る事態となっていた。
この「8月10日の革命」または「第二革命」の主役はサンキュロットと義勇兵であった。同時にそれを指導したジャコバン派の力が大きかった。特に蜂起を扇動したダントンは、「8月10日の男」と言われて一躍脚光を浴び、翌日には司法大臣に任命された。またダントンの派手な動きとは別にロベスピエールも着実に地歩を固め、国民公会の主役となっていく。
8月10日事件 芝生瑞和編『図説フランス革命』p.101
現在、スイスのルツェルンにある「氷河公園」の入口に、「瀕死のライオン」と名付けられた、弱々しく横たわっているライオン像がある。これは、フランス革命のさなかの8月10日事件の時、テュイルリー宮殿でパリの国民衛兵・各地の連盟兵の攻撃からフランス国王を守り、600人が戦死したスイス人傭兵の「栄光と忠誠」を讃えるために建てられたものだという。瀕死のライオンはブルボン家の紋章である百合の花を描いた楯を抱えた姿で岩に掘られている。<森田安一『物語スイスの歴史』2000 中公新書 p.137-8>
コミューン市民は一斉にパリの反革命分子の摘発に乗り出し、まず宣誓拒否司祭(憲法と聖職者基本法に従うという宣誓を拒否した聖職者)を逮捕し、すでに獄中にあったものは牢獄に押しかけて引き出し、形だけの裁判を行いって有罪を宣告し処刑していった。9月2日と6日にかけて虐殺が行われ、この間だけで1300人が犠牲となった。そのうち223人は司祭で、王党派とされたスイス人などが150人含まれていたが、それ以外はたまたま入獄していた反革命とは関係のない一般囚人だった。この急進革命派による暴力によって、穏健革命派は沈黙を強いられることとなり、革命の先鋭化の始まりであり、次の恐怖政治の先触れとなった。
1792年8月10日、パリのサンキュロットが国王の滞在するテュイルリー宮殿を襲撃したとき、その先頭にもテロアーニュの姿があった。その日テロアーニュは、市民によって逮捕された王党派の中に、かつて自分をさんざん罵倒し売春婦扱いした雑誌記者シュローの姿を発見した。怒りを抑えきれず彼女がシュローに飛びかかるや、たちまち群衆がシュローを襲い剣で突き殺すと、血だらけのその首を槍に刺して振り回した。
しかし、マラーなどジャコバン派は彼女が次第に女性の参政権などを主張するようになったことに不安を感じていた。ロベスピエールやマラーはブルジョワの家族観から脱しておらず、女性の政治参加には反対だった。テロアーニュは次第にジャコバン派から離れ、女性参政権にも理解を示す穏健な共和主義のジロンド派に近づいていった。
祖国は危機にあり
1792年7月11日、立法議会はジロンド派が提唱して「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を出し、国民衛兵に武装を命じ、さらに義勇兵の募集が始まった。バスティーユの日を記念する7月14日の連盟祭のために全国から集まった連盟兵に対し、ロベスピエールはジャコバン=クラブで「連盟兵への訴え」を発表し、立憲王政をたおし人民主権の樹立を訴えた。このとき、マルセイユの義勇兵が歌いながら行進した曲が「ラ=マルセイエーズ」である。パリでは48のセクションに蜂起コミューン(自治組織)が結成され、サンキュロットと言われる革命派の市民たちが結集した。7月25日、プロイセン・オーストリア連合軍を率いるブラウンシュヴァイク公は声明を出し、国王に少しでも危害が加えられれば、パリを全面的に破壊する、と脅した。この宣言は国王とマリ=アントワネットの要請を受けてのことであった。憤激したパリ市民は王権停止を議会に要請したが、回答期限の8月9日になっても回答はなかった。8月1日にはすでにブラウンシュヴァイクの率いる干渉軍が国境を越え、パリに迫る事態となっていた。
サンキュロットと義勇兵の蜂起
1792年8月10日、サンテール、アレクサンドルらの率いるパリのサンキュロットが「蜂起コミューン」を率い、連盟兵と連携してテュイルリー宮殿に進撃した。国民衛兵は国王の護衛を放棄し、宮殿はスイス人傭兵が護衛兵として守っていた。はげしい銃撃戦となり、護衛兵側は600名、蜂起側は400名の死傷者がでた。正午に宮殿は陥落。議場に逃れようとした国王ルイ16世一家はただちに監禁された。蜂起コミューン議長ユグナンは議会で蜂起の意向を陳述、議会は王権の一時停止、男性普通選挙制によって選出され立法議会にかわる新しい「国民公会」の召集を布告した。国王一家はコミューンの要求で8月13日からタンプル塔に監禁される事になった。この「8月10日の革命」または「第二革命」の主役はサンキュロットと義勇兵であった。同時にそれを指導したジャコバン派の力が大きかった。特に蜂起を扇動したダントンは、「8月10日の男」と言われて一躍脚光を浴び、翌日には司法大臣に任命された。またダントンの派手な動きとは別にロベスピエールも着実に地歩を固め、国民公会の主役となっていく。
8月10日事件 芝生瑞和編『図説フランス革命』p.101
Episode 瀕死のライオン
スイス ルツェルン氷河公園 入口にある、8月10日事件で全滅したスイス人傭兵を讃える瀕死のライオン像
(トリップアドバイザー提供)8月10日事件の意義
山川詳説教科書の旧版では「8月10日事件」という事件名の記載が無く(2007年版からカッコ付きで記載されるようになった)、その前後の記述もあっさりしているが、これは単なる「事件」にとどまらず、フランス革命を立憲君主政体制あるいは穏健共和政から、山岳派主導の王政廃止、完全な共和政実現に向けて転換させた出来事である。実態はサンキュロットと義勇兵の武装蜂起であり、バスティーユ牢獄襲撃に続いて起こった市街戦であった。この事件は「第二革命」といわれることもある、重要な転機となる出来事であった。このサンキュロットの蜂起の成功によってフイヤン派(立憲王政派)は完全に没落し、舞台は国民公会でのジロンド派と山岳派の対立へと移り、さらに山岳派が権力を握ってジャコバン独裁へとむかうこととなる。9月虐殺
8月10日にパリで生まれた「蜂起コミューン」を組織したサンキュロットは、小売店主、職人などの“名もなき市民”であったが、ロベスピエールやダントンに支持され、強力な革命推進部隊となった。彼らはまたパリを反革命の外国軍から防衛するという使命に燃えており、そのためには内部の反革命勢力を徹底的に排除する必要があると考え、家宅捜索する権限を立法議会に認めさせた。コミューン市民は一斉にパリの反革命分子の摘発に乗り出し、まず宣誓拒否司祭(憲法と聖職者基本法に従うという宣誓を拒否した聖職者)を逮捕し、すでに獄中にあったものは牢獄に押しかけて引き出し、形だけの裁判を行いって有罪を宣告し処刑していった。9月2日と6日にかけて虐殺が行われ、この間だけで1300人が犠牲となった。そのうち223人は司祭で、王党派とされたスイス人などが150人含まれていたが、それ以外はたまたま入獄していた反革命とは関係のない一般囚人だった。この急進革命派による暴力によって、穏健革命派は沈黙を強いられることとなり、革命の先鋭化の始まりであり、次の恐怖政治の先触れとなった。
女性革命家メリクール
ジャコバン派の中にテロアーニュ・ド・メリクールという、革命家の中でも過激な行動と言動で知られている女性がいた。彼女が登場したのは1789年10月のヴェルサイユ行進の時で、そのとき「アンリ4世風の黒い羽根飾りのついた帽子をかぶり、真赤な婦人用乗馬服を着けた腰にピストルと剣を帯びていた」といういでたちで女たちの先頭に立っていた(一説ではヴェルサイユで行進を出迎えたとも)とされ、勇ましさとその美貌で忽ち人目を引き、その後はペティヨンやダントン、カミーユ・デムーランらと交わり革命派の一人となった。その派手な存在はたちまち王党派のジャーナリズムの餌食となり、攻撃と嘲笑に曝され、1791年には王党派に誘拐されてオーストリアのウィーンに送られるという危機に陥った。ところが有名な女性扇動家に興味をもったオーストリア皇帝レオポルド2世が引見して、監禁は不当だと言い出したため釈放され、パリに戻ることが出来た。パリではジャコバン派が彼女を愛国者として狂的に歓迎し、その人気は絶頂に達した。1792年8月10日、パリのサンキュロットが国王の滞在するテュイルリー宮殿を襲撃したとき、その先頭にもテロアーニュの姿があった。その日テロアーニュは、市民によって逮捕された王党派の中に、かつて自分をさんざん罵倒し売春婦扱いした雑誌記者シュローの姿を発見した。怒りを抑えきれず彼女がシュローに飛びかかるや、たちまち群衆がシュローを襲い剣で突き殺すと、血だらけのその首を槍に刺して振り回した。
しかし、マラーなどジャコバン派は彼女が次第に女性の参政権などを主張するようになったことに不安を感じていた。ロベスピエールやマラーはブルジョワの家族観から脱しておらず、女性の政治参加には反対だった。テロアーニュは次第にジャコバン派から離れ、女性参政権にも理解を示す穏健な共和主義のジロンド派に近づいていった。
Episode 女性革命家の狂気
1793年5月、ジャコバン派がジロンド派の追放を決行すると、テロアーニュはジロンド派のブリッソの弁護を国民公会の周辺の民衆に呼びかけた。しかしジャコバン派を支持するおかみさん連中(“編み物女たち”と呼ばれていた)に取り囲こまれ、スカートをまくりあげられ、お尻をさんざん打たれてしまった。テロアーニュは絶望と屈辱からすさまじい叫び声をあげたといわれているが、解放されたとき、気が狂ってしまっていた。それ以降の彼女は奇行を繰り返したため精神病院に入れられ、やがてサンペトリエール監獄に送られ、さらに精神病院を転々とし、20年以上の監禁のあいだ、真冬でもシャツ一枚もまとわず、凍りついた桶の水を頭からかぶったりしながら、“自由”と云う言葉と王党派を呪う言葉を繰り返し続け、1817年6月9日に息を引き取った。<池田理代子『フランス革命の女たち』(新版)2021 新潮社 p.132-144>