ジャコバン派/ジャコバン派の独裁
フランス革命で常に革命の前面にたった急進的共和派の党派名。その支持母体はサンキュロットと言われる都市の小ブルジョワが多かった。1793年6月から94年7月には独裁的な権力を握り、恐怖政治と言われる反革命取り締まりを実行した。
フランス革命の過程で一貫して存在したジャコバン=クラブは、1789年に、ジャコバン修道院で結成された「憲法友の会」が改称した革命派の集団であるが、その中には立憲君主政を志向するグループから穏健な共和派、急進的な共和派などいくつかの党派があり、時期によってその中の主導権を握ったグループとその主張が異なるので注意を要する。一般に「ジャコバン派」といわれるのは、クラブ内で1793年ごろから主導権を握った急進派の山岳派をのことを言う。
ジャコバン=クラブは、当初は立憲君主政を主張する穏健なグループが中心であったが、91年夏頃に共和派が主導権を握り、共和政と対外戦争を主張した。彼らはジロンド派と言われるようになり、立憲君主政を主張するグループはクラブから脱退してフイヤン派を結成した。しかし、王政に対する反発は徐々に強まり、1792年の8月10日事件でフイヤン派は姿を消し、新たに国民公会が成立、さらに王政の廃止が決議されて、第一共和政となった。
まず6月中に1793年憲法を制定し、人民主権を明確に打ち出し、財産資格による制限のない普通選挙などを盛り込んだ(しかしこの憲法は緊急事態が収まるまで実施が延期され、結局実施されなかった)。さらに7月には封建地代の無条件無償廃止などが実現した。
ジャコバン独裁政権の下では国民公会のなかの一委員会として93年4月に発足した公安委員会は、7月からロベスピエールが加わって権限を拡大し、実質的な革命執行政府として、戦争・反革命取り締まりの権限も付与され、ジャコバン独裁の機関となった。また、それとは別に治安・警察を管轄する保安委員会、反革命の裁判にあたる革命裁判所が設けられたが、これらはいずれも憲法の規定にはない、「平和の到来までは革命的である」という決議にもとづく臨時機関であった。
ジャコバン独裁下では、特に公安委員会によって、貴族・聖職者・王党派の残党などの右派が反革命文士として厳しく告発されたが、それだけではなかった。絶対的な社会的平等と土地均分法を要求する労働者や最下層民、貧農の要求はきびしく拒絶し、それらを掲げた過激派であるジャック=ルーなどは捕らえて弾圧した(翌年、獄中で自殺)。ジャコバン派も私有財産制を基盤としたブルジョワの経済関係の立場に立っていた。1794年2月には、西インド諸島の植民地サン=ドマングで起こっていたトゥーサン=ルヴェルチュールによる黒人奴隷の反乱に対応し、黒人奴隷制の廃止が宣言された(ただし後にナポレオンによって無効にされる)。
ジャコバン=クラブは、当初は立憲君主政を主張する穏健なグループが中心であったが、91年夏頃に共和派が主導権を握り、共和政と対外戦争を主張した。彼らはジロンド派と言われるようになり、立憲君主政を主張するグループはクラブから脱退してフイヤン派を結成した。しかし、王政に対する反発は徐々に強まり、1792年の8月10日事件でフイヤン派は姿を消し、新たに国民公会が成立、さらに王政の廃止が決議されて、第一共和政となった。
ジロンド派と山岳派
第一共和政の国民議会では、ジロンド派の主流は上層ブルジョワの立場から革命を収束させようとする穏健な共和政を主張、急進的な共和派でサンキュロットと言われた小ブルジョワの立場に立つ山岳(モンターニュ)派と対立するようになった。両派はルイ16世の処刑問題で鋭く対立したが、次第に山岳派が優勢となり、ルイ16世処刑を実現させた。そのためにイギリスなどが対仏大同盟を結成、また国内の王党派やカトリック勢力の反革命の動きが強まり、革命の危機が高まった。このころから、ジャコバン派といえば、穏健派のジロンド派と対立した急進的な山岳派を指すこととなった。ジロンド派と山岳派(ジャコバン派)の違いは国民公会の項を参照。ジャコバン派政権の成立
国民公会のなかで次第にジャコバン派に圧倒されてきたジロンド派は反撃に出て、マラーを民衆扇動の責任で革命裁判所に告発したが、パリのサンキュロットはジャコバン派を支持し、そのよびかけで5月31日に蜂起して、武装して議会を取り囲んだ。6月2日にはサンキュロットの代表が議場に乗り込んでジロンド派議員の追放を要求、議会はそれを承認した。こうしてジロンド派の追放が成功し、ジャコバン派は議会外でも革命遂行の立場から反対派を反革命としてきびしく取り締まるようになった。地方に逃れたジロンド派議員やその支持者も捕らえられて処刑されたり、自殺したりで消滅した。このようなジロンド派に対する弾圧に反発した女性によって、ジャコバン派の指導者の一人マラーは暗殺された。ジャコバン派の独裁
1793年6月以降はロベスピエールによって指導されたジャコバン派の独裁政治が展開され、急進的な革命政策をつぎつぎと実行された。まず6月中に1793年憲法を制定し、人民主権を明確に打ち出し、財産資格による制限のない普通選挙などを盛り込んだ(しかしこの憲法は緊急事態が収まるまで実施が延期され、結局実施されなかった)。さらに7月には封建地代の無条件無償廃止などが実現した。
ジャコバン独裁政権の下では国民公会のなかの一委員会として93年4月に発足した公安委員会は、7月からロベスピエールが加わって権限を拡大し、実質的な革命執行政府として、戦争・反革命取り締まりの権限も付与され、ジャコバン独裁の機関となった。また、それとは別に治安・警察を管轄する保安委員会、反革命の裁判にあたる革命裁判所が設けられたが、これらはいずれも憲法の規定にはない、「平和の到来までは革命的である」という決議にもとづく臨時機関であった。
ジャコバン独裁下では、特に公安委員会によって、貴族・聖職者・王党派の残党などの右派が反革命文士として厳しく告発されたが、それだけではなかった。絶対的な社会的平等と土地均分法を要求する労働者や最下層民、貧農の要求はきびしく拒絶し、それらを掲げた過激派であるジャック=ルーなどは捕らえて弾圧した(翌年、獄中で自殺)。ジャコバン派も私有財産制を基盤としたブルジョワの経済関係の立場に立っていた。1794年2月には、西インド諸島の植民地サン=ドマングで起こっていたトゥーサン=ルヴェルチュールによる黒人奴隷の反乱に対応し、黒人奴隷制の廃止が宣言された(ただし後にナポレオンによって無効にされる)。
ジャコバン政権の内部対立と崩壊
1793年は、国内ではヴァンデーの反乱、対外的には対仏大同盟(第1回)の結成と、フランス革命は大きな危機を迎えたが、ジャコバン派は6月にジロンド派の追放に成功し、独裁権力を握った。そして年末までにはヴァンデーの反乱も鎮圧し、対外戦争も戦況を好転させることができたが、その間、ジャコバン派内部に対立の危機が迫った。ロベスピエールは分裂の危機に対しても妥協せず、3月に左派のエベール、4月に右派のダントンを次々と排除して、個人独裁の状態となった。権力を集中させたロベスピエールは最高存在の祭典を主催するなど、革命理念の高揚に務めたが、3ヶ月を経た94年7月、国民公会の議場で反対派によって捕らえられるというテルミドールのクーデタが起こり、失脚した。同年11月にはジャコバン=クラブも閉鎖され、ジャコバン派の時代は終わりを告げた。