大陸封鎖令/ベルリン勅令
1806年、ナポレオンがベルリンで、ヨーロッパの征服地に対して出した命令で、イギリスとの貿易を禁止したもの。イギリスを経済封鎖し、孤立化・弱体化を狙うとともに、フランスの輸出振興を図った。イギリスへの一定の打撃にはなったが、効果は限定的だった。またイギリスが対抗して外国の貿易を制限したので、アメリカが反発、1812年に米英戦争が起こった。
1805年10月、トラファルガーの海戦でフランス海軍が敗れたため、ナポレオン1世のイギリス征服の夢を絶たれた。しかし、ナポレオンは大陸ではその直後にアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を破り、さらに翌1806年10月のイエナの戦い(イエナ=アウエルシュテットの戦いともいう)ではプロイセン軍を撃破し、ヨーロッパ大陸での覇者となった。こうして大陸制覇を達成したナポレオンは、残ったイギリスを屈服させる戦術を練った。
大陸封鎖令は突然出されたものではなく、イギリスが1806年5月16日に北海ならびに大陸沿岸の諸港に対する封鎖宣言を出したことに対する対抗措置として出されたものである。お互いに敵国への上陸作戦はできないと判断しているフランスとイギリスが互いの商業上の利益に打撃を与えることで屈服させようという、「商業戦争」の宣戦布告を行ったと言える。また、ナポレオンには単にイギリスを屈服させてヨーロッパの覇権を握ろうと言うだけでなく、イギリス工業製品をヨーロッパ大陸から追い出し、代わりに市場を独占し、フランスの産業を成長させようという意図もあったと考えられている。
経済的背景 イギリスはすでに1760年代から産業革命の時代に入っており、フランス革命からナポレオン時代も正に工業化のただ中にあった。それに対してフランスは革命でブルジョワ階級は政治権力をにぎったものの、産業革命の前段階であったので経済的自立は十分でなく、大陸市場もイギリス工業製品に奪われていた。ブルボン朝は1786年に英仏通商条約を締結して自由貿易に転換したがイギリス工業製品が国内に流入してフランス産業の成長が阻害されたため、フランス革命政府はその条約を破棄し、保護貿易策に戻っていた。それを継承したナポレオンは1800年にフランス銀行を設立して通貨、金融、財政などの改革に着手し、フランス産業の保護育成を開始した。大陸封鎖令はこの保護貿易主義による国内産業の市場を確保するため、大陸全土からのイギリス製品排除を狙ったものでもあった。もちろん、イギリスが数度にわたって対仏大同盟を結成してナポレオンのヨーロッパでの覇権を阻止していることが大陸封鎖令でイギリスの弱体化を目指した第一の理由であるが、その背景にはフランス産業の自立には先行するイギリスの工業力に打撃を与えたいという意図があったことも見逃すことはできない。<ジェフリー・エリス/杉本淑彦・中山俊訳『ナポレオン帝国』2008 岩波書店 p.182-188 などによる>
なお、イギリスはこれに対して翌年、一切の船舶のフランスとその殖民地への入港と出港を禁止する、「逆封鎖令」をだしており、ナポレオンはそれを受けてイタリアのミラノにおいて1807年11月以降、二度にわたって追加の勅令を出し、封鎖を陸上だけでなく海上においても行うことを表明した。これを「ミラノ勅令」というが、通常は一連のイギリスに対する封鎖措置をまとめて「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」といっている。
イギリスの逆封鎖とアメリカの反発 ティルジット条約でプロイセンとロシアを従属させたナポレオンは、バルト海沿岸を抑えたことになり、海岸線に関税線を設けて密輸を取り締まる態勢をつくった。没収されたイギリス商品はフランス兵の手によって民衆の前で焼却し、貿易禁止をアピールした(山川出版社『詳説世界史B』2019年版 p.254の挿絵参照)。それに対する報復措置としてイギリスが1807年1月、フランスとその同盟国に属する諸港間の通商を禁じ、それに反する船舶の積荷を拿捕し、さらにあらゆる船舶に対しイギリスへの寄港義務を課すとすると宣言を発した。イタリア王国に滞在中のナポレオンは激怒し、ミラノで同年11月~12月、数次にわたる勅令を発し、イギリスとその植民地から出港若しくはそこに向かう船舶はすべて陸上と同様に拿捕すると宣言した。これは「ミラノ勅令」ともいわれ、大陸封鎖令を海上にまで範囲を拡げ、イギリスの海上封鎖に対抗するものであった。この英仏による海上貿易での相互封鎖は、対立の立場で大西洋貿易を行っていたアメリカには大きな痛手となるので、後の米英戦争(1812年戦争)の原因となる。
泥沼の半島戦争 また、イギリスとの貿易を盛んに行っていたポルトガルに対しても大陸封鎖令を受諾することを迫ったがそれを拒否されると、11月にフランス軍を派遣してポルトガルに侵攻した。さらに1808年にはスペインを従属させて兄ジョセフをスペイン王に据えて、イベリア半島全域を大陸封鎖令のおよぶ範囲として効果を上げようとした。しかし、それに対してスペインの民衆が反ナポレオンの戦いに起ちあがり、イギリスも軍隊を上陸させてスペイン民衆を支援、半島戦争とも言われる激しい戦闘が続いて泥沼化していく。これもイベリア半島諸国を大陸封鎖令の枠内の置こうとしたナポレオンのねらいにほころびを生じさせることになる。
なお、プロイセン・ロシアから穀物が入ってこなくなったイギリスでは、1801年に併合したアイルランドの穀物に依存するようになった。そのため、アイルランドの農民は穀物を本国移出用に生産し、自分たちはジャガイモを主食とするようになった。
しかしこのスペインでの半島戦争とナポレオンが自ら先頭に立ったモスクワ遠征はいずれも失敗し、ナポレオンの没落の契機となってしまう。大陸封鎖令という大がかりな大陸支配を打ち出したことによって、かえってそのほころびを縫う必要が生じ、ナポレオン帝国そのものが崩壊することになった、と言うことができる。
大陸封鎖令の発布とその意図
ナポレオンは1806年11月21日、プロイセンの首都ベルリンに入城し、その地でヨーロッパの各国にフランス皇帝の命令としてこの大陸封鎖令を発した。これはベルリン勅令ともいわれる。「勅令」とは皇帝が出した命令と言うこと。大陸封鎖令は突然出されたものではなく、イギリスが1806年5月16日に北海ならびに大陸沿岸の諸港に対する封鎖宣言を出したことに対する対抗措置として出されたものである。お互いに敵国への上陸作戦はできないと判断しているフランスとイギリスが互いの商業上の利益に打撃を与えることで屈服させようという、「商業戦争」の宣戦布告を行ったと言える。また、ナポレオンには単にイギリスを屈服させてヨーロッパの覇権を握ろうと言うだけでなく、イギリス工業製品をヨーロッパ大陸から追い出し、代わりに市場を独占し、フランスの産業を成長させようという意図もあったと考えられている。
経済的背景 イギリスはすでに1760年代から産業革命の時代に入っており、フランス革命からナポレオン時代も正に工業化のただ中にあった。それに対してフランスは革命でブルジョワ階級は政治権力をにぎったものの、産業革命の前段階であったので経済的自立は十分でなく、大陸市場もイギリス工業製品に奪われていた。ブルボン朝は1786年に英仏通商条約を締結して自由貿易に転換したがイギリス工業製品が国内に流入してフランス産業の成長が阻害されたため、フランス革命政府はその条約を破棄し、保護貿易策に戻っていた。それを継承したナポレオンは1800年にフランス銀行を設立して通貨、金融、財政などの改革に着手し、フランス産業の保護育成を開始した。大陸封鎖令はこの保護貿易主義による国内産業の市場を確保するため、大陸全土からのイギリス製品排除を狙ったものでもあった。もちろん、イギリスが数度にわたって対仏大同盟を結成してナポレオンのヨーロッパでの覇権を阻止していることが大陸封鎖令でイギリスの弱体化を目指した第一の理由であるが、その背景にはフランス産業の自立には先行するイギリスの工業力に打撃を与えたいという意図があったことも見逃すことはできない。<ジェフリー・エリス/杉本淑彦・中山俊訳『ナポレオン帝国』2008 岩波書店 p.182-188 などによる>
大陸封鎖令の内容
大陸封鎖令(ベルリン勅令)は、前文でイギリスが先に大陸の海岸を封鎖したとして、国際法に違反し、大陸の工業・商業に打撃を与えることを意図しているなど8項にわたってその不当性を非難し、本文第一条で「イギリス諸島を封鎖状態に置くことを宣言する」とし、大陸とイギリスおよびその植民地の交易・通信を禁止する措置をとり、違反した場合の積荷の没収、フランスとその占領地のイギリス人を捕虜とするなど、イギリスとの全面戦争を宣言している内容である。なお、イギリスはこれに対して翌年、一切の船舶のフランスとその殖民地への入港と出港を禁止する、「逆封鎖令」をだしており、ナポレオンはそれを受けてイタリアのミラノにおいて1807年11月以降、二度にわたって追加の勅令を出し、封鎖を陸上だけでなく海上においても行うことを表明した。これを「ミラノ勅令」というが、通常は一連のイギリスに対する封鎖措置をまとめて「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」といっている。
資料 大陸封鎖令(ナポレオンのベルリン勅令)
前文を省略し、本文の中の主要な条文を挙げれば、次のようなものである。<吉田静一「ナポレオン大陸体制」『岩波講座世界歴史18』1970 岩波書店 p.218>
- 第一条
- イギリス諸島を封鎖状態に置くことを宣言する。
- 第二条
- イギリス諸島との貿易・通信はいっさい禁止される。したがって、イギリス宛、イギリス人宛の、もしくは英語で書かれた書簡あるいは小包は郵送されず、差し押さえられる。
- 第三条
- わが軍隊もしくは同盟国軍隊の占領地域に見出されるイギリス臣民は、いかなる身分・地位のものでも、戦争捕虜とされる。
- 第四条
- イギリス臣民に属するあらゆる商店・商品・財産は、いかなる性質のものであれ、正当拿捕を宣せされる。
- 第五条
- イギリス商品の取引は、禁止される。イギリスに属するか、あるいはその工場ないしは植民地からもたらされる商品はいっさい正当拿捕を宣せられる。
- 第七条
- イギリスもしくはイギリスの植民地から直接来たか、あるいは本勅令の公布後そこに寄港した船舶は、いっさい大陸のいかなる港にも入港せしめない。
- 第八条
- 虚偽の申告により、前述の規定に違反する船舶はいっさい拿捕され、船舶および積荷は、イギリス財産として没収される。……
大陸封鎖令の影響
イギリスはすでに1806年6月、ナポレオンがオランダ王国を樹立して事実上支配をオランダにおよぼしたことに対し、アムステルダムなどの海港を封鎖していた。イギリス海軍に対抗できる海軍を持たないナポレオンは、イギリス経済に打撃を与えることで追いこむという「商業戦争」での打開を図って同年11月に大陸封鎖令を発した。翌1807年、フリートラントの戦いでロシアのアレクサンドル1世を破り、7月に1807年に講和条約としてティルジット条約を締結し、プロイセンの領土を縮小するとともにロシアに対して大陸封鎖令を遵守することを約束させた。イギリスの逆封鎖とアメリカの反発 ティルジット条約でプロイセンとロシアを従属させたナポレオンは、バルト海沿岸を抑えたことになり、海岸線に関税線を設けて密輸を取り締まる態勢をつくった。没収されたイギリス商品はフランス兵の手によって民衆の前で焼却し、貿易禁止をアピールした(山川出版社『詳説世界史B』2019年版 p.254の挿絵参照)。それに対する報復措置としてイギリスが1807年1月、フランスとその同盟国に属する諸港間の通商を禁じ、それに反する船舶の積荷を拿捕し、さらにあらゆる船舶に対しイギリスへの寄港義務を課すとすると宣言を発した。イタリア王国に滞在中のナポレオンは激怒し、ミラノで同年11月~12月、数次にわたる勅令を発し、イギリスとその植民地から出港若しくはそこに向かう船舶はすべて陸上と同様に拿捕すると宣言した。これは「ミラノ勅令」ともいわれ、大陸封鎖令を海上にまで範囲を拡げ、イギリスの海上封鎖に対抗するものであった。この英仏による海上貿易での相互封鎖は、対立の立場で大西洋貿易を行っていたアメリカには大きな痛手となるので、後の米英戦争(1812年戦争)の原因となる。
泥沼の半島戦争 また、イギリスとの貿易を盛んに行っていたポルトガルに対しても大陸封鎖令を受諾することを迫ったがそれを拒否されると、11月にフランス軍を派遣してポルトガルに侵攻した。さらに1808年にはスペインを従属させて兄ジョセフをスペイン王に据えて、イベリア半島全域を大陸封鎖令のおよぶ範囲として効果を上げようとした。しかし、それに対してスペインの民衆が反ナポレオンの戦いに起ちあがり、イギリスも軍隊を上陸させてスペイン民衆を支援、半島戦争とも言われる激しい戦闘が続いて泥沼化していく。これもイベリア半島諸国を大陸封鎖令の枠内の置こうとしたナポレオンのねらいにほころびを生じさせることになる。
大陸封鎖令の矛盾点
大陸封鎖令は、ナポレオンが全ヨーロッパに対して命じた、イギリスを経済的に孤立させ、その産業に打撃をあたえて間接的に弱体化させることを狙ったものであった。また、別の狙いとしてはイギリス工業製品がフランスに入ってこなくなることによって、フランスの諸工業の自立・発展を図ることもあった。しかし、それには次のような矛盾があり、狙い通りには行かなかった。- フランス産業が大陸市場を独占することとなり、他の諸国の産業を圧迫し、搾取することとなった。
- 産業資本家にとっては有利だが、貿易商人にとっては不利なので国内の利害が対立することとなった。
- 農業国であるロシア・ポーランド・プロイセンなどは穀物をイギリスに輸出し、工業製品を輸入して経済が成り立っていたので、打撃が大きかった。<井上幸治『ナポレオン』 岩波新書 P.134 など>
(引用)この大陸封鎖にかけたナポレオンの狙いは、二つあったと考えられる。イギリス製品および、イギリスを経由する再輸出用の植民地産品が大陸内で販路を得られなくなれば、イギリスは深刻な経済危機にみまわれ、とおからず講和を求めてくるだろう。ナポレオンは、そう推論したのである。そして第二の狙いが、イギリス製品に取って替わり、フランス製品のための市場を大陸内に確保することだった。たしかにイギリスの対ヨーロッパ貿易は、大陸封鎖後に激減した。しかし、それを補うかたちで大西洋貿易が伸張し、イギリス経済は大陸封鎖に耐えることができた。むしろ大陸封鎖は、ナポレオンの大陸支配体制を内部から揺るがすことになった。というのも、イギリスほどの工業化が進んでいなかったフランスは、安価で高品質な工業製品を、イギリスに替わって大陸市場に供給できなかった。また大陸諸国の経済は、農産物輸出に依存するロシアやプロイセン、スペイン、ポルトガル、そして中継貿易に頼るオランダやバルト海沿岸諸都市など、イギリスとの交易が断たれてしまえば、動揺せざるをえない構造を持っていた。こうして大陸封鎖への不満が、大陸諸国のあいだに高まっていくことになったのである。<杉本淑彦『ナポレオン』2018 岩波新書 p.195-197>
イギリスの対抗措置
イギリスは、トラファルガーの海戦でフランス海軍を破り、その上陸を阻止したものの、ナポレオンの大陸封鎖令は自国の工業製品の輸出と、工業原料・穀物の輸入がストップすることになるので深刻な危機であった。そこで、イギリスは対抗措置として、ナポレオン制圧下の全ヨーロッパとフランス植民地を封鎖する措置に出た。このイギリスの逆封鎖によってアメリカ合衆国のフランスを含むヨーロッパとの貿易が妨害され、同時にアメリカの海運業にとって大きな打撃となるので、アメリカのイギリスに対する反発が強まった。また、ヨーロッパ大陸諸国との貿易が減少したが、イギリスはそれに代わる新たな市場として独立を遂げつつあった南アメリカ(ラテンアメリカ)に積極的に進出していった。そのため大陸封鎖令によるイギリスの打撃は、数年間は厳しいものがあったが、ラテンアメリカなどを新たな市場として開拓したことによって、貿易総額でも大きな落ち込みとなることなく、危機を乗り切ることに成功したと言える。なお、プロイセン・ロシアから穀物が入ってこなくなったイギリスでは、1801年に併合したアイルランドの穀物に依存するようになった。そのため、アイルランドの農民は穀物を本国移出用に生産し、自分たちはジャガイモを主食とするようになった。
アメリカへの影響
アメリカ合衆国の第3代大統領ジェファソンは、ナポレオン戦争に際して中立政策をとっていたが、大陸封鎖令が出されたことによってフランスとイギリスが互いに敵国の封鎖を宣言したので、中立維持は困難となった。フランスは、イギリス向けのアメリカ船を拿捕し、イギリスはそれに対抗してヨーロッパ大陸及びフランス植民地へのアメリカ船の入港を妨害した。実際にはフランス海軍は制海権がないのでアメリカ船にとって脅威ではなかったが、イギリス海軍は大西洋の制海権を握っていたので、アメリカの貿易と海運業にとって打撃となった。イギリスはさらに、アメリカ船の乗組員にイギリス海軍からの脱走兵が隠れているとの理由でアメリカ艦船への臨検を頻繁に行い、その際にアメリカ人を強制徴用することもあったので、アメリカの反英感情は次第に高まっていった。1808年に大統領となったマディソンのもとで、対英強硬派(タカ派)が台頭してアメリカ・イギリス関係はさらに悪化し、1812年にアメリカ議会がイギリスに宣戦布告して米英戦争(第2次独立戦争)が勃発した。大陸封鎖令の修正
ヨーロッパ大陸のすべての海港でイギリスとの貿易を禁止するのは現実には困難だった。実際、海港の商人は封鎖に強い不満を持ち、密輸はあとを絶たなかった。また貿易禁止によって関税収入が無くなることも次第に財政を圧迫するようになった。これらの問題はある程度予測されていたであろうが、ナポレオンは1810年に立て続けに幾つかの勅令を出し、大陸封鎖令の修正を図った。それは輸出入を特定の商品に関して許可制にして認めるというもので、関税を引き上げも行った。これらは貿易管理を強化した上で輸出入を増やそうというものであったが、貿易許可が与えられたのがフランス商人(後にアメリカ商人にも与えられた)だけであったことなど、従属国には強い不満が残った。これらの措置によって1810年からは貿易額が回復しはじめたが、プロイセンとロシアではイギリス向け穀物輸出が依然として禁止されたので国内の穀物が余り、価格が下落して農民の不満が強まった。<吉田静一「ナポレオン大陸体制」『岩波講座世界歴史18』1970 岩波書店 p.224>ロシアの離反
ロシアのアレクサンドル1世はティルジット条約で大陸封鎖令の遵守を約束、ロシアの海港でもイギリスとの取引を停止したが、イギリスからの工業製品が入ってこず、また穀物をイギリスに輸出できないことは大きな痛手あった。そこで密輸が盛んに行われるようになり、ロシアもそれを黙認せざるを得なくなった。ついに1812年、アレクサンドル1世は公然と大陸封鎖令からの離脱を表明、それに対して、大陸封鎖網を守ることが「ナポレオン帝国」を維持することであるという認識に立つナポレオンは、ロシア遠征を決心した。もともと手段に過ぎなかった大陸封鎖が目的化してしまったとも言える。しかもその目的は達成することができず、帝国は維持できなくなった。しかしこのスペインでの半島戦争とナポレオンが自ら先頭に立ったモスクワ遠征はいずれも失敗し、ナポレオンの没落の契機となってしまう。大陸封鎖令という大がかりな大陸支配を打ち出したことによって、かえってそのほころびを縫う必要が生じ、ナポレオン帝国そのものが崩壊することになった、と言うことができる。
大陸封鎖の崩壊
1813年、ナポレオンのロシア遠征の失敗、ライプツィヒの諸国民戦争の敗北によって大陸封鎖は崩壊した。この年は帝国防衛のために徴兵・徴用が強化されて経済へのしわ寄せが大きくなると同時に、戦火によって内陸交通路が寸断され、帝国の実態は崩壊した。(引用)ともあれ大陸封鎖の総合点は、統計資料で判断するかぎり、封鎖が開始される1806年時点の大きな期待を裏切るものであった。たしかに、ドイツ系ならびにイタリア系の諸国に対するフランスの公式輸出額は、1806年から1812年まで全般的に好記録を達成し、従来よりも明らかに高い水準を維持していた。しかしその一方で、海上貿易部門は以前よりも弱体化した。フランスの貿易総額が1789年水準を回復するのは、ようやく1826年のことである。いいかえれば、革命戦争とナポレオン戦争とのあいだにこうむった海外貿易の損失のせいでフランスは、約40年間分の商業成長を犠牲にしたのである。<ジェフリー・エリス/杉本淑彦・中山俊訳『ナポレオン帝国』2008 岩波書店 p.199-200>