ナポレオン戦争
1796年から1815年までのナポレオンによって起こされ、展開された一連の戦争。フランス革命を外国の干渉から守る革命防衛戦争として始まったが、しだいに「革命の理念の拡大」のための戦争、一面では侵略戦争へと変質した。さらに1812年のモスクワ遠征失敗を境にナポレオンの帝国防衛戦争に転化した。戦争をつうじてヨーロッパの封建体制を崩壊させ市民社会の拡張をもたらしたが、周辺諸民族を抑圧する結果となった。軍事史には、傭兵に依存した絶対王政期の軍隊から、徴兵制に基づく国民軍を主体とする戦争への決定的な転換をもたらした。
当初はフランス革命に対する外国の干渉に対するフランスの防衛戦争であったが、ナポレオンが権力を獲得(1799年)してからは「革命の理念の拡大」を大義として戦われるようになった。しかしそれは周辺諸国から見れば、一方的な侵略戦争であった。ナポレオン自身は、後にセントヘレナで「私は64もの戦いをたたかった」と言っており、その生涯は戦争に明け暮れ、また戦争の勝利によってフランス国民の絶大な支持を得ることとなった。高校での学習に出てくるナポレオン戦争の主要なものは次の通り。
その戦闘形態も従来の銃剣による歩兵の密集戦術と騎兵の機動的な展開に加えて、砲兵部隊による先制的な攻撃が重要になってきた。ナポレオン軍の強さは、ナポレオンの天才的な指揮官としての能力だけではなく、このような国民軍の戦闘意欲の高さと、機動性が圧倒的に高かったこと、補給網など戦闘の組織化が進んでいたことなどが挙げられる。しかしナポレオン軍の力も、まずスペインにおけるゲリラ戦において、ついでロシア遠征における消耗戦においては力を発揮できず、敗北の連鎖の泥沼にはまっていく。
革命防衛の戦争
ナポレオンの軍事行動はまずフランス革命の末期の総裁政府のもとで、オーストリアとイギリスの干渉から革命を防衛するための戦争を指揮するところから始まった。まずわずか26歳でイタリア遠征(第1次、1796~97)軍司令官任命され、オーストリアに勝利し、カンポ=フォルミオの和約を締結、第1回対仏大同盟を終わらせた。さらにイギリスのインド支配を妨害するためにエジプト遠征(1798~99)を行った。エジプト遠征ではオスマン帝国軍には勝利したが、アブキール湾の戦いではネルソンの率いるイギリス海軍に敗れた。イギリスは第2回対仏大同盟を結成、ナポレオンはしばらくエジプトに足止めされたが、総裁政府の危機に対応するため急きょパリに戻り、1799年にブリュメール18日のクーデタ実権を握り、第一統領となった。ヨーロッパ征服の戦争
権力を握ったナポレオンは、フランスのブルジョワ・農民の支持を背景にして、革命の理念を全ヨーロッパに広げると言う大義の下、実際には征服戦争を開始する。イタリア遠征(第2次、1800)で再びオーストリア軍と戦い、マレンゴの戦いで勝利した。さらにイギリスとは1802年のアミアンの和約で一旦和平を実現したが、1804年のナポレオンの皇帝即位を受けて第3回対仏大同盟が成立、ナポレオンもイギリス征服をもくろむがトラファルガー海戦(1805)でネルソンの率いるイギリス海軍に敗れ、それには失敗した。しかし大陸での戦いは、アウステルリッツの三帝会戦(1805 オーストリア・ロシア連合軍と戦い勝利)、イエナの戦い(1806年 プロイセン軍と戦い勝利しベルリンを占領、さらにポーランドに侵攻)、ポルトガル征服(1807 ジュノー将軍を派遣)、スペイン征服(イベリア半島戦争、1808年にスペインの反乱を鎮圧するため自ら侵攻)などを次々と展開し、勝利を続けた。しかしスペインではゲリラ戦に悩まされて苦戦し、ナポレオンの戦いは防衛戦争へと転換する。ナポレオン帝国の防衛戦争
ナポレオン帝国の最大の敵であるイギリスを弱体化するために1806年に大陸封鎖令を出したが、各国の足並みが揃わず、特にロシアがその命令に実質的に従わなかったことから、1812年にロシア遠征に踏み切った。しかし、モスクワに入城するも冬将軍に敗れて撤退し、陸上での正規兵との戦いで初めて敗北を喫した。それをきっかけに、ライプツィヒの戦い(1813 諸国民戦争)でヨーロッパ諸国連合軍に敗れ、連合軍がパリに入城し、ナポレオンはついに退位した。エルバ島を脱出し皇帝に復帰後、1815年にワーテルローの戦いで再起をかけるウェリントンの指揮するイギリス軍などに敗れ、ナポレオン戦争は終結、セントヘレナ島に流された。ナポレオン戦争の意義
約20年にわたり、全ヨーロッパを巻きこんだナポレオン戦争は、多大な犠牲を払った「近代への移行」であったといえる。フランス軍は革命中に始まる徴兵制によって編制された国民軍であり、彼らは自由と権利のために戦うとともにナショナリズムにも燃えていた。そのような戦闘意欲に燃えるフランス軍を迎え撃つヨーロッパ各国は従来の封建的な傭兵部隊の時代は過ぎ去ったことを痛感させられ、各国とも国民軍の創設して常備軍を強化するという方向に向かった。その戦闘形態も従来の銃剣による歩兵の密集戦術と騎兵の機動的な展開に加えて、砲兵部隊による先制的な攻撃が重要になってきた。ナポレオン軍の強さは、ナポレオンの天才的な指揮官としての能力だけではなく、このような国民軍の戦闘意欲の高さと、機動性が圧倒的に高かったこと、補給網など戦闘の組織化が進んでいたことなどが挙げられる。しかしナポレオン軍の力も、まずスペインにおけるゲリラ戦において、ついでロシア遠征における消耗戦においては力を発揮できず、敗北の連鎖の泥沼にはまっていく。
英仏の第2次百年戦争
イギリスとの戦争状態は、17世紀末に始まる英仏植民地戦争(ウィリアム王戦争、アン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争)とアメリカ独立戦争の際の英仏対立、そしてこのナポレオン戦争まで百年以上続いたので、第2次英仏百年戦争ともいう。イギリスはこの間、植民地戦争でフランスを圧倒し、アメリカの独立戦争ではカナダを除く北米植民地を失うという痛手を被ったが、ナポレオン戦争では海軍力で勝利を占め、ウィーン会議でのウィーン議定書ではケープ植民地やスリランカなどの海外領土を獲得するという成果を得、産業革命の進行と相俟って、19世紀後半の大英帝国の繁栄を実現させることになる。ナポレオン戦争はフランス、ドイツなどヨーロッパ本土を荒廃させたが、その直接の被害を受けることのなかったイギリスが第二帝国=大英帝国として、次の覇権国家となっていく。ナポレオン戦争後のヨーロッパ
ナポレオンのエルバ島への配流によりフランスではブルボン家の復古王政が成立、周辺各国もフランス革命とナポレオン戦争前の状態への復帰が図られ、1814年9月からウィーンでオーストリア外相メッテルニヒが議長となってウィーン会議が開催された。各国の利害が対立して、会議は進捗しなかったが、ナポレオンのエルバ島脱出を受けて急速にまとまり、1815年6月までにウィーン議定書を成立させ、ウィーン体制と言われるフランス革命以前の絶対主義態勢を復活させた保守反動体制が19世紀前半のヨーロッパを支配することになる。しかし、ウィーン体制はフランス革命とナポレオンによって火が付けられた自由と平等を求める民衆の運動と、ラテンアメリカ地域での独立運動が激しくなり、1848年の革命によって倒されることとなる。